2008年08月22日

よそのお宅のことですが

日本人なら誰でもが知る有名な某家の一人娘のA子ちゃんのことが、前から少し気になっている。
一昨日もどこそこにある別荘に一家で避暑におでかけ、とのことで両親と衆目の前に姿を現した彼女の姿がTVのニュースで流れた。
そのお宅のことが大好きな350人ほどが、ワーワーキャーキャーと小旗などを振る中を、小学一年の夏休み中である彼女は母親と手を繋ぎながら、通り過ぎねばならなかった。
画面にはあまり映らないが、さらにその周りにはさぞや大勢の警護の人間やマスコミのカメラマン達が取り囲んでいたことだろう。

父親は幼少の頃より身に付いた職業的ともいえる満面の笑み。
母親もとても心からとは思えないが、とりあえずぎりぎりのところで身にまとった武装の笑み。
そして、彼女はというと・・。
初めは両親と一緒にお出かけで楽しそうな笑みを浮かべていたが、取り囲む人々を見て徐々に顔がこわばり始め、最後は大勢の視線に曝されて、まさに凍りついた表情になっていた。
その瞳からは、『一体これは何?私はどうしてこんなところに居るの?』というような問いが、いくつも発せられているかのようだった。

アナウンサーは『かわいらしい笑顔で・・・』などと、白々しいコメントを出していたが、誰もそのとおりには思わなかっただろう。

私は、折に触れ画面に映し出される(それは生後間もない頃から始まったわけだが)A子ちゃんの表情に、とても気になるものを感じている。
それは、彼女の表情やまなざしの中に、かつての私の娘の表情に似た『何か』を、見出してきたからである。
娘が三歳になったくらいの時からだったと思うが、まったく無心であった乳幼児期とは微妙に違う『何か』が、そこにはしばしば現われるようになった。

たった三歳ぐらいでそのような変化があるものか、三歳といえばまだまだ無邪気な幼児期ではないか、と思う人は多いだろう。
しかし何年も経ってからだったが、成長した我が子の口から私が聞いた言葉は、いかに三歳が色々なことを感じて生きていたか、ということばかりだった。

・・・・・・・・・・・・・・・・

娘は三歳で三年保育の幼稚園に通い始めた。
彼女には大勢の中で、誰に向けられるともわからない言葉(主にそれは指示的な言葉だったが。)がまず不可解で違和感のあることだった。
さらにその言葉によりロボットのように一斉に動かなければならないことは、娘には不安であり恐怖であった。
お眠りタイムというものがあって、眠りたくもないのに目をつぶらなくてはいけなかったが、それは暗闇に落ちていくに似た感じのことだった。
他の幼児と過ごしながら、なぜかその『外側』からその様子をじっと眺めている『私』がいた、こともあった。

娘はその年の二学期ぐらいから登園拒否になった。
それから娘の集団における苦難の歴史が始まった。

・・・・・・・

要するに私が今になって思うのは、彼女にはいささか人よりは早く目覚めてしまった『何か』があった、ということである。

一般的には幼児がどのような感性で生きて生活しているかは、主には外からの観察によるしかない。
すると観察者自身が自分の幼児期を、余程意識的に生きた人でないかぎり、『大人の目』でわかることしか語られていないことになる。
私はたまたま我が子が上記のような人であったことから、幼児といえども中には大人が想像もつかないくらい、複雑な内面生活を送っていることがある、ということを伺い知ることになった。

ここで注意したいのは、そのような感性があるからといって、そこに人の優劣があると思っているわけではないということである。
むしろそれがために、娘がどれくらい幼稚園やその先に続いた学校で、親にもわからない苦労をせねばならなかったかを考えると、そんな感性は決して望むようなものではない。

娘の歴史は、そういう自分を肯定し、自分を無理に周囲に合わせようとすることを≪一つ一つやめていく≫歴史でもあった。
しかしそれは幼いながらも、生死の淵を彷徨わねばならない程の、命をかけたぎりぎりの厳しい経験でもあった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、話を戻そう。
某家のA子ちゃんの中に、僭越を承知で言うなら、私はあの頃の娘に宿っていたと同じような表情が見えてきて、決してよそさまのできごととは思えない昨今なのである。
その表情はA子ちゃんが三歳くらいの頃より垣間見る思いがしていたが、一昨日の表情にはいよいよそのことが顕著に感じられた。

彼女は今年の春、小学校に上がった。
公立と私立、教育の仕方には違いがあるだろうが、現代の日本の学校であることに変わりはない。
彼女に対しては、かつてとは違ったそれなりの配慮がされているだろうが、それが顕著であろうがなかろうが特別であるには違いない。
そして、とりわけ、どこかに出かけるたびに大勢の人の視線に曝されてしまうあのような環境。
それらが大きく変わることは当分ないだろう。
また伝え聞く母親の不調もある。
祖父母との関係などもとても難しいらしい。

要するに、普通でさえ人一人が成長していくのにとても大変なことが多い今の日本の環境なのに、彼女の環境はそれに何十にも輪をかけた厳しさを伴っている。

その環境の中で彼女は、すでに解きようもないほどの大きな問いを抱えている。(一昨日の表情がそれを語っている。)
同時に、早くに目覚めた『何か』も体験しているように見える。
それがそういう環境から生まれたものなのか、或いは生来持っていたものであるのかは判らない。
敏感な素質の上に、特殊な環境がそういう傾向を一層強めていったということもあるだろう。

しかしそんな時、集団の一人として『意味もわからずみんなと同じことをする』などということはとても困難なことになる。
問いを抱えた人間は、それだけで苦しいのだから、せめてゆっくり考えられるよう、暖かく見守る人や環境が必要なのに、集団はそれを許さない。
集団は彼女に必要なエネルギーを補給するよりも、むしろ無駄にそれを奪い取ってしまうだろう。
早晩、彼女に集団は合わなくなるのではないだろうか、と元不登校児の親として私は直感し危惧する。

勿論、他の彼女の従姉達は似たような境遇なのにそのようなことにはならなかった、という声があるだろう。
でも私の目から見るに、彼女の感性は従姉達とは違うのである。

彼女がこの環境の中で、どのようにサバイブしていくか、ある意味その母親の苦難とはまた異なる大きな苦難が想像される。
どうか、隠したり、無理に行かそうとしたりしないようにと、私たちが歩んできた以上の困難が想像されるので、それを切に願ってしまう。
これらのことが私の狭い了見からくる単なる的外れ予想であるのが一番いいのだが・・・。

但し、悪いことばかりではない。
それなりに恵まれたところのある環境でもある。
元来、他にはまねのできないような人的資源に恵まれたホームエドュケーションの伝統を持つ家系でもある。
もし、彼女が『集団』にいることが厳しくなったら、何も『学校』にこだわらずにその伝統を復活させたらいいのではないだろうか、と我が家では話している。

そうすれば、同じように集団が合わなくなった他の多くの子ども達も、今より多少楽になれるにちがいない。
不謹慎かもしれないが、そんな波及効果も予測のうちには入っている。
posted by みるく at 13:07| Comment(1) | 不登校・ひきこもりについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月09日

本の紹介・≪「ひきこもり」の「社会理論」≫

私は『ひきこもり』の追っかけである。

我が子が不登校児であったこともその要因ではあるが、むしろ自分が人生で出会って感じ取って来たことと、『ひきこもり』が模索し提示するものとが、どこかで繋がっているという直感があって、その探求の仲間に加わっていると言っていい。
むしろ、それが提示するものに、私は【追いつきたい】と願ってここ数年追っかけ続けている。

そんな中で最近、とうとうその私の願いを叶えてくれるような出色の本に出会ったので紹介したい。


「ひきこもり」の「社会理論」―「ひきこもり」完全理解のために
  市野善也 著 (新風舎文庫、2006年)
  http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/479749798X

25歳の無名の青年が出した(ほとんど自費出版らしい)本である。
彼もひきこもりの経験者ということで、心情に関する部分を読めばその苦しさを充分に体験してきた人であるということがわかる。
彼の特徴はその苦しさをばねに、何故自分がこんなに苦しいのか、その理由を知りたいと願って、数多の書物(2000冊!)を読みその解明に全力を注いだ、と思われることである。

そして、彼は『ひきこもり』ということについて、他の人にも自分自身にも充分理解・納得ができるように【説明】を試みた。
その試みは、少なくとも私においては大いに成功している。
それは私が今まで読んだどの本よりも分かりやすく、納得がゆき、了解できるものであった。

それは、彼がひきこもりの経験者として個的な心情や意識の実態によく精通しながら、しかしそこに留まらず、何故そういう現象が発生したのかということを、家庭や学校や会社の有り様、さらにはその有り様を生み出した社会や時代の特徴と関連づけて、ていねいにきちんと説き起こしたからである。

今まで私が出会った本では、そうでないものが多かった。(全くなかったというわけではないが。)

個的な心理状況に詳しい精神科医や心理家のそれは、その特徴については分析的に解説しても、それが何故存在するようになったかについては理解できず、原因の探求を棚上げし、個人の治療や回復ということに話を終始させていた。

一方、学者のそれは、社会や経済の仕組みについては説明できても、個的な心情には疎く、その意識の射程も理解できないので、結局、常識的なオヤジの説教にすぎない無意味な発言に陥っているのが関の山だった。

当事者、経験者の本も、その苦悩はとてもよく伝わったが、自分自身への否定的な感情を抱えたままでは、社会の仕組みや背景について言及することがいかに難しいかということが伝わるものであった。

しかし、いわばこういうものの積み重ねの結果、今、ようやくこのような本が出てきたと言えるのかもしれない。

・・・・・・・

彼はまず現在数十万人から百万人いるといわれる『ひきこもり』を、『社会の問題』であると捉えて、それは『機能不全に陥った社会』からの『回避行動』であり、決して『個人の病気』などではないと明言する。

但し、それは病気ではないが、【本当はひきこもりなどしたくないのに、抜け出せない不自由な状態】でもあり、それが本人にも家族にも苦しいのだと述べる。
従って、『ひきこもり』が解決した状態とは、本人が自分の意思で【ひきこもることもできるし、ひきこもらないこともできる】という真に『自由な主体』になりえた時である、と彼は言う。

言われてみれば、なるほどと思う。

また『ひきこもり』の状態は【不信と不安の悪循環】に陥っている状態でもあるので、それを【信頼と安心の循環】転換していくことが必要で、そのためにもそれを生み出した『現にある社会の問題』を理解する必要があるのだ、と言う。

まず、彼は【社会の発展段階】を、@『伝統社会』、A『近代社会』、B『成熟社会』の三つに分ける。
産業構造的にはそれぞれに第一次産業から第二次、第三次産業が優勢になっていく社会である。

@の『伝統社会』は、過去に行われてきたことをそのまま繰り返す社会であるが、そこには【選択肢の欠如】がある。但し、人々は他の選択肢を知らないので、その欠如を苦しいとは感じない。

Aの『近代社会』は、過去よりも未来の方が発展すると思われている社会であるが、そこには選択肢はあるものの【選択の機会や手段の欠如】がある。人々はその欠如が苦しく、その手段(例えば“お金”や“高学歴”)が目的になるという逆転があるが、ある意味わかりやすい単一の価値観に支えられて生きることができる。

Bの『成熟社会』はAの『近代社会』の目的がひとまず達成された後に訪れる社会であるが、選択肢も選択の機会・手段もほぼ得られたものの、そこには何を選んでいいかわからなくなる【選択能力の欠如】がある。人々はその欠如に苦しむ。

彼はさらに戦後の日本の社会の有り様を上記のAからBへの、すなわち『近代社会』から『成熟社会』への変化の過程として位置づける。

1950~75年頃までがAからBへの発展段階であり、それを『現実と理想の時代』とする。
産業構造的には第二次から第三次へ変化していった時代である。

75年頃~90年頃まではBの『成熟社会』への段階に入っていたのにもかかわらず、バブル経済という虚構のために、価値観は『近代社会』のまま、現実とずれた『虚構と妄想の時代』を送ってしまう。

90年頃~現在までは、虚構と妄想が明らかになり、『成熟社会化』していることが意識されるようになったが、上記のずれから生じた問題とともに【成熟社会特有の問題】も噴出し始めた。この時代を『動物と狂気の時代』と呼ぶ。

およそ以上のようなことを彼はもっとていねいに緻密に論じていく。

社会や時代の捉え方にはもっと違う観点からのものもあるだろうが、重要なのは、ばらばらに見える個人の意識の有り様がいかに社会や時代の流れの中から生じて来ていることなのか、その必然性と関連性を見出すことである。

それによって『ひきこもり』が個人だけの、家庭だけの『問題』ではなく、今ある社会の大切な『課題』であることが見えてくる。

彼はそれに成功している。

最後の『動物と狂気の時代』における【成熟社会特有の問題】こそが、【ひきこもり理解】のキーワードになる。

【選択肢実現の機会や手段】がほぼ手に入った今、私達はいわば人類が今まで直面したことのない困難な状況に陥っているといってもよいかもしれない。

『成熟社会』とは【あらゆることに根拠がない】ということに気付いてしまった時代であると言う。
【価値観が多様】になり、何を選ぶにも確たる根拠が得られなくなって、何に価値があるのか、何が幸せなのか、確かにわからなくなっている。

さらにはどうして学校に行くのか、どうして社会に出て働くのか、ついには何故生きているのか、疑問を持ってしまうとどこにも確たる答えを見出すことができないところまで私達は来ている。
以上のことは意識するかしないかに関係なく、行動への動機付けに繋がってくる。


・・・・・・・・

もし、この今の社会の有り様に何らかの疑問を持ち、そこで生きていくのが生きづらいと感じて、その理由を知りたいと思い、どのように生き方を変えればいいのか考えてみたい、と思うならこの本をぜひ読んでもらいたい。

彼はひきこもりを始めとする諸問題が生じたその理由を、時代や社会の発展段階の中で必然的に現われた【価値観の多様化】に象徴される意識の有り様に結びつけながら、ではその時代や社会の中で何がどう変わればいいのかまで、言及している。

家庭の、学校の、企業の有り様やそこへの関わり方について、自ら考え、独自の提言を試みておりそれは新しい方向性を示していて大いに参考になる。

失礼な言い方になってしまうが、ひきこもっていたのだからいわば社会経験などほとんどないと思われる青年がどうしてこのような本を書けるのか、それ自体が驚きである。

しかし、それこそが、『ひきこもる』ということの重要な側面を現しており、その意義を充分に証明していると思った。

posted by みるく at 07:11| Comment(2) | 不登校・ひきこもりについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月17日

不登校・我が家の場合(35)


不登校<その後>B

前回の記事の補足です。


◆≪就職≫について


娘が留学先のリトアニアから帰国したのは大学4年の6月だった。

秋になって、世にいう≪就活≫なるものを娘も一応やってみようとしたことがある。

どういう方面を探したか詳しいことはよく知らないが、ともかく資料を取り寄せ、説明会に出かけて行った。

リクルート活動ということで、礼服としても使えそうな黒のスーツをとりあえず着て、2社ほど訪問してきたところで、次のように言った。

『ダメ。やっぱり私は企業さんには合いません!話聞いているだけでそう感じた!』

一応、申し込んだ残りのもう一社をのぞくだけのぞいてみて――こちらは、もう着たくないということで普通の服で参加。もちろん誰一人そんな格好の人はいなかったとのこと。――娘の≪就活≫は終了した。


現在、勤めているNPO団体は実は卒論を書くときに取材させてもらったところだ。

せっかく取材させてもらったのでボランティアとしても週一回通っていたところ、あなたの様な人に来てほしいと言っていただいた。

ありがたいけれどただずっと勤めるつもりはないのだが、と返事したら、それでもいいということになりそれでそこで働くことになった。


大学の同級生達からは『そんなの<あり>だったの!』と驚かれてしまったらしい。

将来どうするかについては言わないし聞かないが、私達が予想もしないような――振り返れば今までずっとその連続だった!――方向に歩んでいきそうな気がする。



◆≪信条≫について


前回の記事の始めに

娘が、≪この世に着地≫後に表現した生き方は、≪やりたくないことを無理してやろうとするのはもうしない≫ということであり、その代わり≪やりたいと思うことは全身全霊をそそいでやる≫、そのようなものであった(と私の目には映った)。

と書いた。

これはいわば娘の生き方の≪信条≫のようなものとして、私の目に映ったことである。

そして、今年になって例のごとく二人でお茶を飲みながら昔のことを話していた時に、どうしてこのような思いになったのか、それに結びつくと思われることのひとつを耳にした。


それは、ひきこもりについて話す集まりで≪家族にしてほしかったこと、してほしくなかったこと≫を話題にして話し合うことになっていたので、我が子に聞かない手はないと思い、娘に尋ねてみた。

すると、娘は、ちょっと真顔になって
『これを言うと、かあちゃんを悲しませるだろうと思ってずっと言わなかったんだけどね・・・。』
と切り出した。


『どきっ!!』
襟を正す思いで次の言葉を待った。

『実は、・・・・産んでほしくなかったのよ。』

『え!?・・・・・・・。』


娘は・・・

死ぬのが怖くて怖くて仕方がなかった頃、そう思ったのだそうだ。

怖いから、もう死んでしまいたかったけれど、死ぬのが怖いのだから、死ぬに死ねない。

自分の悩みはそういうパラドックスに満ちた悩みだった。

そして、親に対して『どうして私を産んだの?』と思うと同時に、自分自身に対して『しまったっ!生まれてきてしまったっ!何てことしたんだろう!』と思ったという。

≪どうして生まれてきてしまったのだろう?≫ ということが問いになった。


そして・・・

こんなに怖いのは自分はどこかでよほど怖い思いをして死んだのかもしれない。

でも生まれてきてしまった。

ということは

≪何かよほどやりたいことがあったにちがいない!≫


このように、娘の思考は進んだ。



私はある頃より、≪人間には生まれる前や死んだ後にも続くものがある≫ということを、一応、仮説としてではあるが、否定もできないことという形で受け入れている。

それは、実際に自分の人生で体験してきたことの結果からそのように考えてみると一番納得がいくし、自然に思えるからである。

そしてこれはシュタイナー思想の考え方の基本部分でもある。


しかし、前にも書いたが娘はシュタイナー思想には無縁であるし、他に特に傾倒しているものがあるわけではない(はずだ)。

上記のような考えには、自分の体験から自然にたどりついているようだ。

しかし、これは私が学んで知ったことと驚くほど一致しているのである。



≪死ぬのが怖い≫と強烈に感じたことがもとになって、娘は、≪自分はこの人生で何かを果たしに来たのかもしれない≫という予感(或いは実感?)を持つに至った。

ただし≪何を果たしに来たのか≫については、きっとまだわからないのではないかと思う。

だからこそ≪自分の今を最大限、生きようとしている≫ように親の私の目には映る。



その果たしにきたことが何であるか、今を精一杯生きてみないとそれは観えてこないに違いない、だから≪やりたいと思ったことを見逃さず精一杯やることにした。≫


そのような生きることへの≪覚悟≫のようなものが始めに書いた娘の≪信条≫に結びついたように私には感じられた。


・・・・・・


<最後に>


これで長かったこの連載をひとまず閉じたい。


読んでいただくとわかるが、これは母親である私を通してみえた娘の≪不登校≫である。

見たり聞いたりしたことを書いてきたわけだが、書きながら絶えず感じたのは、実際のところはどうだったのだろう?という問いだった。

娘のこととは言え、結局、私に見えたこと、感じられたことを書いたにすぎなくて、それは私にはそう映ったということである。


しかし、それでは書いたことすべてが私の主観にすぎないのかと言えば、そうばかりとも言えないと考える。


主観について言えば、私が私の主観を通して書いたことを、さらに読者は読者の主観を通して受け取ることになる。

人は、主観という囲いの中で物事を認識できるのかという疑念に絡みつかれそうになるが、私はその二重三重のいわばフィルターがあっても、物事には伝わっていくものがあると感じている。


自分がその伝わるものをどれくらいこの中で提出できたかはわからない。

そこに何を感じ取っていただけるかは、書かれた内容そのものにもよるが、読者自身の経験や感性にも左右されるところだと思う。


ここに書いたのは、私という母親を通して見えた一不登校児の20年ぐらいの軌跡と、あともう一つ、その不登校児の親である私自身の軌跡である。


何が提出できたかはわからないが、それは、一人の子どもの不登校体験というよりは、それが家族の中でどのように受け止められたのか、私というフィルターを通してどのように見えたのか、そういうことを書いたことにはなるのだろうと思っている。


何となくつけたタイトルであったが、≪不登校・我が家の場合≫としておいたことでそんなに内容を偽らないものになったのではないかと思う。


・・・・・・・・


お読みいただきました方々、ほんとにありがとうございました。

まだまだ書きたいと思うことはあるので、このブログはもう少し続けるつもりでいます。

引き続きお読み下さると幸いです。


            *****************


                   室内から


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posted by みるく at 23:48| Comment(7) | 不登校・ひきこもりについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月15日

不登校・我が家の場合(34)

不登校<その後>A


私の娘は≪不登校≫といういわば自らの≪異端≫の状態に子どもながらに激しく悩み苦しんだ子ども時代を持っている。

その中で、≪死ぬこと≫の恐怖も味わい、ついには≪金色の椰子の木≫の見えるところまで行ってこの世に生還してきた(らしい)。


その娘が≪この世に着地≫後に表現した生き方は、≪やりたくないことを無理してやろうとするのはもうしない≫ということであり、その代わり≪やりたいと思うことは全身全霊をそそいでやる≫、そのようなものであった(と私の目には映った)。



大学受験も≪やるからには・・・≫ということで、家庭教師の指示に沿って全精力を注いで取り組んだ。

信じられない猛勉強ぶりだった。

それも途中までは雑誌編集の仕事をしながらの取り組みだった。


結果はほぼ完璧に近かった。

6大学8学部を受け、1学部のみが不合格だった。

娘はどこが受かったなどと品のないことを他人に言ったことはないというが、親ばかを許してもらいたい。

文系の私学をほぼ制覇したものだった。(注)


この時は家族中で大騒ぎだった。

同じく不登校で中学卒業後大工になって一生懸命働いていた息子が、『僕も職場で、鼻、高々だよ!』と言ったのがほほえましかった。


この時のことで面白かったのは、娘にとっては、受験は生まれて初めてだった(中学入試も高校入試もしていない)ので、それが新鮮な経験だったということだ。

雪に見舞われたセンター試験も、修学旅行に行く子どものように、緊張しながらも嬉々として家を出て行った姿が忘れられない。


大変だったのはいくつか選択肢ができてしまったのでどこの大学に入るか随分悩んだことだった。

この時もぎりぎりまで悩んで、しっかり≪学ばせて≫くれそうなところに自分で決めた。


≪自分で≫といえば、経済的な面でも親の私達は何もしてやれなかったので、いくつかの奨学金を併せて受けて4年間を送った。


こんな経過で入学した娘は、今度は大学で全精力を傾けて勉学に励んだ。

受験の時と変わらないほどの勉強を、楽しそうにやっていた。

大学は自宅からかなり遠かったが、往復5時間かけて通いとおした。


大学3年の時には、念願の海外留学も果たした。

この時もどこに留学するか随分迷ったようだが、とことん悩んだ末に、北欧に近い旧ソ連邦の小国リトアニアを選んだ。


どこまでもマイナーにこだわりたいということが、かつて≪異端≫であった人の選択の理由の一つであったらしい。

訪れたリトアニアは真冬には零下20度にもなる厳しい寒さの国だったが、予想通り、娘の感性にピッタリなじむところであったらしく、第二の故郷のようなところになった。



そして、娘は今春、無事に4年間の学業を終えて卒業をした。


現在、NPO団体の職員として働いている。


・・・・・


娘は中学を卒業してすぐに働いたので、中卒のまま8年間社会で働いた。

そして今は一応、大卒で働いている。


ある時、中卒と大卒で何か変わったことがあったかと聞いてみたことがある。

中卒の時も主に飲食店のアルバイトではあったが、いくつか面接なども受けて仕事を探してきたのでどうだったのか知りたかった。


すると、あるところの店長は自分がもとヤンキーだったとかで、面白がって採用してくれたこともあったし、とにかく困るようなことはなかったと言った。

それよりも大卒になった今の方が、色々面倒くさいことが多いのだとか。

語学などもできて当然と思われるしね、ということであった。



そして、娘のモットーは≪勉強はしたくなった時にするのが一番!≫ということ。


大学時代にも、娘の経歴を不思議に思う5〜6才年下の同級生達に、逆に『どうして、みんなは高校卒業と同時に大学に進学することを考えたの?』と尋ねたのだそうだ。

主には、受験に有利ということだったらしいが、それ以外にはっきりした理由を聞くことはできなかったという。


本来は、大学が≪入りたい人≫が≪入りたい時≫に≪入れる≫ようになっていれば、もっと自由に≪学ぶ≫ことができただろう、というのがその場での結論になったということだった。


・・・・・・・


(注)

今回のように一つの出来事の結果を書いてしまうことは、≪諸刃の剣≫であると思っている。(実はそれで足踏みしていた。)


一つには、≪不登校≫ということに関して、まだまだ大きな不安を抱かれている方々も多いので(現在直面されている方々のほとんどがそうだと思う)、ともかくもマイナスのことばかりではなさそうだということを知ってもらえるという側面。

いわば一つの実例として、お子さん方の将来にはさまざまな可能性があるということを実感していただく一助になるかと思う。


しかし、一方でこのような実例を挙げることで、そうではなかった場合の方々に暗黙の否定感を与えてしまうのではないかと恐れる。

それは当事者に対してそうであるし、ご家族に対しても同じである。

また、現在不登校という場合にも、一度はそういう場合もあるということで≪希望≫になったとしても、それはうちの子はそうはならないかもしれない、という不安に再び変化することもある。


これは、≪人間はひとりひとりみな違うのだ≫と思いながら、一方でそのあり方に良し悪しや優劣の≪社会の常識的な価値観≫をかぶせずにはいられない自分がいるからだと思う。(私も含めてこれもまた仕方のないことだと思う。)

でも、やっぱり≪人間はひとりひとり違う≫ということが真実なのだと思う。


親(バカ)の私は、娘の快挙(?)を素直に喜ぶとともに、そのことを肝に銘じたいと思っている。


そして、不登校の先に何があろうとも(今がどんな状態であろうとも)≪人それぞれに掘り進めなくてはならないことがある≫のだと受けとめたい。(これも受けとめられない人、或いは、受けとめられない時、を否定するものではない。)


ただ家族としては、≪その歩みが成就するよう、できる限りのことをしたい≫とそれだけを自分に願っている。




いよいよ次回は<不登校・我が家の場合>シリーズの最終回を迎える予定です。



               **************


                  高幡不動尊の紅葉


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2005年12月13日

不登校・我が家の場合(33)

不登校<その後>@


中学校卒業を目前にした頃、多分家庭の事情も察してのことであったと思うが、娘は何か仕事をしたいと言った。


そんな時、フリースペースの理解者であり支援者でもあったある雑誌編集社の代表が、娘のワープロの腕を見込んで娘を採用してくれた。

一日4時間程のパート労働が娘の仕事の第一歩になった。


その編集社では主に企業のPR誌を作成していた。

初めは手伝いだった娘もいつしか取材や編集を担当するようになった。

時代の流れで会社の規模が縮小されて、最後にはその代表と娘の2人になった。

代表はもともと子育てや教育問題を扱うフリーライターだったので、何冊か自著を出版したがそのアシスタントとしても仕事をした。


15才から、大学受験することになった23才まで約8年間、娘はその仕事に携わった。


また、編集の仕事はパート労働だったので土・日には他の職種も経験してみたいということで、喫茶店やファーストフード店の接客の仕事もいく種かやった。


若かったせいか、どの仕事も何かしら吸収できるものがあるらしく、楽しそうにやっていた。



一方でコミック好きや宝塚好きが高じて、17才ぐらいからは演劇にも没頭した。

市民劇団に入って役者として何度か舞台に立った。

劇団では皆、役者と同時に裏方もやるので常時忙しく、特に舞台公演直前には仕事が終わると稽古に追われる毎日で帰宅はいつも深夜を過ぎていた。


中学卒業後、このように娘は<仕事>に<芝居>に忙しい毎日だった。



20才になった頃、『もともと私は、学校や集団は苦手だったが、勉強が嫌いだったわけじゃない。』と言って、仕事を続けながら通信制の高校に通うようになった。

<通う>と言っても2週に一度スクーリングを受けに行くだけで、後は自宅で都合の良い時に録音した講義を聞いて自学自習してレポートを提出するというものである。


実は、中学卒業後も娘は公立高校の通信制に籍を置いていたが、こちらはシステム的に合わないところがあっていつの間にか辞めていた。

二度目の通信制は講義もよく工夫されていたので、娘は腰を入れて楽しくしっかり学ぶことができたようだった。



そして通信制の高校を終える一年程前より、娘の中には大学への進学の気持ちが少しずつ膨らんでいった。

初めは、自分の好きな分野があってそれを学ぶための進学を目指していた。

しかし少しずつ調べるうちに、特に特定の学科を限定せずに、<学び方>をしっかり身に付けさせてくれる大学への進学を目指すようになった。


どういうわけか幸運なことに、何かをしようと決めると、娘にはそれを応援してくれる助っ人が現れくれることが多かった。

この時もバイト先で知り合った年下の大学生(その人は大手進学塾の講師をしていた)が、娘の大学受験の家庭教師役をほとんどボランティアで買って出てくれた。


かくして娘と家庭教師の二人三脚による10ヶ月あまりの大学受験に向けた猛勉強が始まった。


                                     つづく


              ***************


                 高幡不動尊の紅葉


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2005年12月11日

不登校・我が家の場合(32)

不登校時代<その2> 中学1年生〜3年生


フリースペースで過ごした頃の、いわば第2の不登校時代の娘の様子を紹介してきた。


娘が過ごしたのはフリースクールではなくフリースペースであったので、そこは、不登校であるというだけで家庭以外どこにも行く場所がなかった子ども達が、先ずは、安心して居ることができることを目指した場所であったと思う。


そこには、規則らしい規則はなくて、遅れていこうが休もうがそれは全くの自由であった。

規則について、多分誰もそんなことは敢えて意識はしなかったが、あるとするなら、人を傷つけないということだけだった、と思う。

但し、これも、絶対に傷つけない、などということは、人との関係の中では不可能に近いわけで、傷つけないようにしよう、という暗黙の空気があっただけである。


さらに、もし、傷つけ合ってしまったら、周囲の者も含めて、そのことにどれだけきちんと向き合うことができるか、そこに重点を置いていたと思う。
(私の見る範囲、フリースペースでは実際、そのように対応される場面を幾度か目撃した。)


しかし、このことは、そういった居場所だからというのではなく、人の集うところであれば、どこでも重視されなくてはならないことである。


娘の先の≪見聞録≫ににじみ出ているのは、人間として当たり前だと思うことが、例えば養教センターで、あるいは、相談学級で、面接の校長とのやりとりの中で、残念ながら見出せなかったということだと思う。


前にも書いたが、このフリースペースは主に経済的な困難により4年ぐらいでその活動を閉じた。(娘がそこを終えてから1年ぐらい後だった。)


・・・・・・・・・・・・・・・


さて、中1の一学期間だけを登校した以外、在籍校に一日も登校することのなかった娘も、中3の3月には≪無事≫に卒業した。


1980年代後半から90年代は、不登校現象も社会的にかなり認知された頃だったので、それ以前に比べれば学校側の親や不登校の本人への≪働きかけ≫は、随分ソフトなものになり始めていた。


学期の初めと終わりに担任に連絡を取って状況を知らせておくことで、あとは特に問題にされることもなかったので、親子ともどもよけいなことで神経をすり減らすことなく過ごすことができた。
(それまでは、住んでいる地域や学校やそれぞれのケースで違いは見られるが、登校を求められて、色々≪働きかけ≫を受ける場合が多かった。)


但し、一応、卒業証書だけは本人が取りに来るようにということだったので(強制ではなかったと思うが。)敢えて拒否するつもりもなかた娘は、私と一緒に学校に行った。



ここに、その時の様子を、例によって、フリースペースAの通信に書いた娘の文章があるので、それを一部転載して、不登校時代<その2>を終えることにする。


・・・・・・・・・・・・・・・・

            Mくんの たわごと


皆様、3月だというのに寒い日が続きますが(雪が降る〜♪)いかがお過ごしでしょうか。

せっかくの卒業パーティ(←フリースペースの)前に、風邪をひいてしまい、それなのにノコノコ<A>に行った(なんだいそりゃ、^^;)元気なんだかボロボロなんだかよくわからないMです。

えー、この度、Mはめでたく中学校を卒業しましたっ!!

パンパカパーン、パッパッパッ、パンパカパーン、おめでとう―――うっ!!・・・と一人でお祝いするMさん。

これで義務教育ともさようならだね。

うっうっうっ、淋しくて笑っちゃうな――っ!!

というわけで、笑いとセキがとまらないMくんの卒業の日々を追ってみましょう。


しかしなんだな。

僕も中学へは、1学期分しか行っとらんのにけっこう卒業できるもんなのね。

いや、そりゃまあ、かあちゃんや先生方には、時間をさいてもらったり色々と世話をかけてますがね。

お世話やいてくれる人々もいたりなんかして・・・(嬉しくて涙が出るぜっ!)


しかし、まいったまいった。

卒業式の終わったあとに、証書だけをもらいに行ったら、出会ってしまった2年半ぶりに会う友達、知人、見知らぬ級友・・・。

『おーっ』だとか『久しぶりー』だとか『覚えてるー?』だとか『だれ』だとか・・・。

友達に、『この人は君のクラスメートだよ!』と紹介してもらった見知らぬ級友と、『どうもはじめまして』などとまぬけなあいさつをしてしまった。

卒業アルバムの僕の写真(一人だけスナップからとったので、ボヤけてヘン!)を見ながら、『この人だれ?どうしてこんな写真なの?』と言ってくれた後輩。

それはあなたの目の前にいる先輩の写真です。


そんなこんなで、たくさんの同校生(←こういうの?)たちと談笑したのち、Mはかーさんと一緒に、おそらくアルコールがとびかっているだろう職員室へと向かった。

まあ、『ハイ。これね。』と言って渡してくれるなんてことはないかな。

もしかすると校長先生と一対一にされちゃうかな。

ま、いいか。もらえれば。

が、しかし。現実はきびしかった。

突然、『あ、Mちゃんだあ』と、ほとんど覚えとらん先生たち(すみません。一生懸命頑張って思い出しますから^^;)がゾロゾロ出てきて、3年生担当の先生方(らしい)10数人が注視する中で、たった一人の卒業式ごっこが行われてしまったのである。

ぬけているのは校長先生と副校長先生だけだった。(笑)

証書を読みあげたのは、『一度やってみたかった』という身長180cm(推定)の我が担任。

このはずかしさをどう言えばわかっていただけるだろう。

一年生のころケンカばっかりしていた先生もほほえむ中、Mは泣きたいのをこらえて(注・感動ではない、決して!!はずかしいよう!)ちゃんと証書を受けとった。

『おめでと――うっ』と、湧き起こる、よう覚えとらん(ごめんなさい)先生方の拍手。

そして『がんばって下さい』という祝辞。

もうありがたくてありがたくて、ほら、涙が・・・・出ないんだな、これが。


そういえば、小学校の時も、『これでおさらばだ――っ。』と言って、体育館を出たとたん笑い出したっけ・・・。

しょせん、Mの卒業なんてこんなもの。

まあそんなわけで、とりあえずMは卒業したワケだ。

皆様、色々とご苦労様でした。                       

                         以下、略



              *************


              高幡不動尊(日野市)の紅葉


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2005年12月06日

私が≪ひきこもり≫に関わる理由

これはよほどじっくり考えた上で表明すべきことで、ある日、ふと思ったぐらいで文章にしてしまうのはちょっとどうかと思うが、ふと思うことの中にも大切なことはあると思うので(ブログならでは?)、書き留めてみることにした。



先日、都内某所で開かれている、ひきこもりについて話し合う集まりに参加した。

午後2時ごろから話し合いを持ち、その後の2次会3次会も含めて夜の10時頃まで、何人かの当事者、経験者の方々と出会って話しをした。


翌日にも、別の場所でセミナーがあり、二人の経験者の話を聞く機会があった。

こちらはコーディネーターがいて色々な角度から経験者にその核心的な部分を尋ねて話を深めるというものだった。


・・・・・

私が当事者・経験者の方々と直接出会って話すという経験を持つようになったのは2年ぐらい前からになるが、初めはとてもぎこちなくて一体何をどう話していいのかわからずに不安だった。

もともと私はこう見えても(←どう見えるんだか!?)人見知りをする方なのである。

それでもいつしか打ち解けて(というかきっと図々しくなっただけなのだろうけど・・・。)会話を重ねられるようになってきた。



先に自分の緊張について書いてしまったが、実際のところは私と出会った彼らや彼女らのそれの方が何倍も大きいだろうと思う。

中には初めからとてもフレンドリーに話しのできるひきこもりの経験者もいるが、長いひきこもりの後にやっとの思いでそこに出てきている人がほとんどで、そんな当事者がそういうところで他者と話すことがいかに大変であるかは想像に難くない。


実際のところ、家族以外の他人と話すのは数年ぶりのことだと集まりに来て語った人もいる。


そういう方々がこんな私と出会って話してくれるわけで、その時には少なくとも私の全身全霊を投入して向き合いたいものと思っている。(あまり、力みすぎるのも迷惑な話なので、そこは程々にということで。)



というわけで、先日の集まりでも、初対面の人から何度目かの人まで、何人かの方々と色んなことをしゃべった。

グループの中でしゃべった人もあれば、その人とだけの会話になることもあった。


それでも、互いに顔を見ながら、目を見ながら話していると、話す言葉とともに様々なものが伝わってくる。

瞬間、瞬間の感情が伝わることもあれば、それよりもうちょっと不変のその人の気質のようなものが伝わることもある。


しかし、これらのことは別に彼らでなくとも伝わり感じあっているものでもある。

人と出会うことの楽しみは、こうした人それぞれが表わす感情の機微や気質に触れることでもある。



ところが、彼らと話しているとさらにもう一つ、他では味わえない【何か】が私に伝わってくるのである。

それこそが、今日私が書きたくなった私がひきこもりに関わる【理由】の重要なポイントであるが、実は伝えるのがとても難しいことでもある。



自分は今日何年ぶりかで人と話したと語った人も、こちらが耳を傾けると、その話の内容は驚くほどその【何か】を伝えていて深い感銘を受ける。

ひきこもりの人は、一般的にいわゆるコミュニケーションスキルが低いと言われがちだが、こんな時は一体どういうコミュニケーションのことを指してそのように言えるのか?と、問い返したくなる。



私が感銘を受けるその【 何か】とは、私が【55年かけてやっと掴めた】と思えることと重なる。

それを、そういう出会いの中で、私は彼らの言葉の端々に見出すことがある。

正確には、言葉そのものよりも、言葉のやりとりのあいだににじみ出てくるものである。


彼らの言葉に私がうなずくこともあれば、私が発した言葉を彼らがしっかり掴んでくれることもある。


そんな時、何かがこみ上げてきて万感の思いになる。

私は密かに響きあった喜びに包まれる。

知らぬうちに何故だか心が暖かくなってくる。



・・・・・・


【55年かけて少しわかりかけてきたこと】、それは私が【苦しさのどん底で見出した】もののことである。

それを、今初めて出会う、およそ年代も経験も異なる彼らの言葉の中に発見できた時の私の驚きと喜びを想像してもらえるだろうか。



5年、10年とひきこもっていた彼らの体験は壮絶なものである。

≪ひきこもっていてよかった≫なんてきっと口が裂けても言えないような凄惨な一面も、ある時期にはあっただろうと想像する。

しかし、体験もしていないのによく言えるねという≪そしり≫を覚悟で言うなら、そういう誰にも想像できないような苦しさの体験だったからこそ、掴んでこれた【何か】を彼らは手にしているように私には見える。



私がその全てをキャッチできているとは到底思えないが、それでもちょっとした言葉の中にも、果てしない苦労の末にその人が手にしたに違いないと思われることを表現している【何か】に出会えることがある。


それが何であるか・・・、言葉として伝えたいが、それは様々にかたちを変えて表現されるので、一言では言えない。


・『俺ってそういうやっかいな奴なんですよ・・・。』

・『何もできないでいるとどんどん理想の自分が膨らんでいって、今ここにいる自分とこんなに距離があいている。どうやって、その今の自分を自分が受け入れていくか・・・・。難しかったけど、僕はこうなんだ、って少しずつ今の自分に近づけていった・・・。』

・『ある朝、目覚めたときに自分のここのところが(胸の辺りを指して)<・・生きたい・・>と叫んだんですよ。僕はそれを聞いちゃった。その声を聞いちゃったもんだから、何としてでも生きなきゃいけなくなっちゃった。今まで思っていたこうなったら出ていこう、なんて言っていられなくなっちゃった・・・。』



生きることの難しさ、葛藤の激しさが、その人なりの言葉で語られる。

突然、自分の中で聞こえた言葉を語る人もいる。


私と話してくれている人は、長いひきこもりの後にようやく外に出て、緊張と不安を抱えながらもそれでも誰かと出会ってみよう、と思えた人だと言える。

すでに、どこかでどん底からは抜けている人だとも言える。

そういう人はどん底で味わったこと、突然その中で訪れた心的体験などを、耳を傾ける者に話してくれる。



一方で、何かの確信を誰もが掴んでいるとはかぎらない。

何とか外に出なくては、と自らにプレッシャーをかけて外に出てきた人もいる。

そういう人の言葉はまだまだ引きこもった自分を許せずに、自責の苦しさがにじみでるものになる。

だが、その掴まなかった(途中で出てきてしまった)人でさえ、きっとそれまでのその人の人生にはなかった何かが心の奥底に生まれているということが、言葉の端々から伝わる。



それらすべてに、若いのに(一応、私の方が年上なので)偉いなあ、すごいなあ、という思いが沸く。

何かそういう類の共感に包まれるのである。



苦労の種類は違ったけれど、彼らは私と同じ方向を目指して歩む同志達、そんな共感が拡がる。


≪おばさんの勝手な思い込み≫

≪苦しさを感じて生きてきた者の、他者への勝手な自己投影≫

≪弱者の傷の舐め合い≫

と様々に揶揄されそうだが、一応、それら全てを吟味してみても、私の中には決してそうは思えない【何か】が残る。


これからの人生を生きていくのに、

≪とても前向きになれるようなもの≫

≪もう何があっても怖くない(これ以上悪くはならないのだから!)と思えるようなもの≫

≪だからこそ生きていくのに最強のカードになると思えるようなもの≫


そんなものがその【何か】の中にはある。



それが互いの中で、響きあい、照らし合うのを私は感じる。


そういう類の事柄は、なかなか自分一人の力だけではその存在の確認ができにくいことのような気がする。

外からの助けというか、同じような種類の光が必要で、互いに照らし合うと光り始めるというような、そんな種類の事柄である気がする。



とにかく、出会ってまだ間がない人なのに、一体これは何だ!、と思うようなそんな感覚に私はそこで包まれることがあるのだ。

そして、多分この感覚は、自覚されるとされないに関わらず、私独りの一方的なものではないだろうと思っている。


彼らの表情やまなざしが、それを語っている(ような気がする)。


話し終わって、ああ、おもしろかった!、という気になる。



翌朝、目覚めたとき、まだその感覚が私の中には残っている。

昨夜はまだ、頭の中で感じていたそれが、眠っている間に胸の辺りにまで降りてきていて、私の中にすっかり沁みこんでいるのを感じる。


そしてそんな時、なぜか私は、心が元気になっている!と感じる。

生きているかいがあったと強く感じる。

涙が出るほどに、【私の何か】が喜んでいるのを感じる。



二日続けて、彼らと出会った翌日にもそのことを強く感じた。


これが、【私が≪ひきこもり≫に関わる理由】である。




           ******************


                 キャンパスの紅葉



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2005年11月29日

不登校・我が家の場合(31)

不登校時代<その2> 中学1年生〜3年生

◆<通信>からの転載C

  
  しつこく Mくんの 養教見聞録その4 
                    
                〜養護教育総合センターの怪・その後〜


担当の先生と母上と僕はきらびやかな校長室に入った。

ごくフツーにふんぞりかえった(すまない・・・でもそう見えた)校長とのご対面だ。

第一印象として、あまり気が合いそうになかった。

そして、その予感は命中した。

卒業、卒業、また卒業。

ここの校長はそれしか言わない。

卒業させるために、卒業するには・・・・この連発だ。

しかも、ターゲットは母上である。

<A>の事を話すと、『そんな所に行っても卒業できない。』とのたうちまわる。

僕は何度家に帰ろうかと思ったか。

しかし、完全に青すじをたてている僕と母上のとなりで、養教の先生が、申しわけなさそうな顔をしていらっしゃる。

校長の話(あんまり頭にきていたので、内容は忘れた。)を聞いているうちに、養教が天国に見えはじめ、ここは一つ先生の面子を立てねばと思い、何とか難破した理性に浮き輪をかけ、押さえた(つもりだ)。

しかも、この校長、うちの中学の校長と<国大>時代、同級生だったらしく卒業できるよう言ってあげようか、などと言い出す。

僕は言った。

卒業するために行く学校じゃぁない!!

すると校長は『へぇ。あなたよく勉強してるねぇ。』

・・・・こんなもんあたりまえという気がするのだが・・・?

今どきの学校、卒業するための登校、入学するための卒業なのだろうか。

ここらへんに教育の崩壊を感じる。

全ての課程を終えたあと、何か残るのだろうか。(残ってりゃいいよ。)

僕は話の半ばで決心した。

天と地がひっくりかえろうがゆるがない決心だ。

F中には金をつまれたって行かない!!

そうなると、その後の話がおかしくなり、何度か吹き出しそうになった。

もう何の意味も持たない話になってしまったワケだ。

(怒りを湧かせるという意味はあったかもしれない。)

何とかフォローしろというなら、『僕が勉強不足なのかなぁ。』と言ったことだろうか。

そうだ。

卒業するだけが能じゃないということを知ってほしい。

しかし、この校長に進化の道はあるのだろうか?

F中の校長にはその人なりの考えがあるとして、それはそれで仕方がない。

とにかく僕はもうどうでもよくなった。

そんなワケで、僕は相談学級に背をむけたのであった。

と、その時、僕は気付いたのだ。

相談学級に行くと養教が天国に見える。

養教に行けば学校に後光が差す。

そうか!

これは学校復帰させるための逆療法だったのか!!

なーんてね。

が、しかし、養教はやはりイヤだ。

相談学級の見学は2校まで(ぐらい)と決まっているとか。

これでは、不登校児が減るワケはない・・・。


以上、僕のつたない文章(?)でした。

長くてキタナくて申しわけない。もっとかきたいなー・・・。

                              おわり


・・・・・・・・・・


これで、娘の文章の転載は終了です。

一人の不登校の生徒の中学3年当時の、その頃の気概を感じ取っていただけただろうか?

こんな不登校児もいた、ということで読んでいただければと思う。

蛇足になるが・・・、娘は文中で自分のことを【僕】と言い、私のことを【母上】と呼んでいる。

奇異に感じる人もいるかもしれないが、私にはこの年頃の気分の一つがこの表現にも込められていて、当時の娘にとってはこれが自然な表現だったのだろうと感じられる。


             ***************

                 下のお寺の銀杏


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2005年11月27日

不登校・我が家の場合(30)

不登校時代<その2> 中学1年生〜3年生

◆<通信>からの転載B


14年ほど前、当時通っていたフリースペースで発行していた<通信>に、娘が書いた記事です。

前回と前々回に紹介した文章は<通信>の12号に掲載したものでした。

今回からの文章は13号に掲載したものになります。


・・・・・・・・・・


しつこく Mくんの 養教見聞録その3                 
                    
                 〜養護教育総合センターの怪・その後〜


皆様こんにちは!お久しぶりです。

えーっと、この【見聞録】、色々な所でかなりの反響があったようでして・・・これはその後を書かねばならぬ!と思い、しつこく、ページをうばいとりました。

意外な結末をむかえた養教見聞録、とくとごらんあれ!(見たくない?!ふーん・・・。)



さて前回グチリにグチっていたあの養教、何とその後、驚異的な裏の世界をMは知ってしまった。

A(フリースペースの名)に来ている、福祉関係のお姉様から、お聞きした話なのだが、何と、あの養教にはかくされた秘密(大っぴらな秘密はない)があったのだ。

前回に書いたのだが、まずカメラがついている。

廊下についているカメラもふくめ、実は作動してないとか。

だったらつけるんじゃなー―いっ!!

まったくのムダ使いじゃないかぁっ!!

経済大国日本!

いや、しかし、作動せずとも、それなりの圧迫感はあったのだから、ムダではないのか?!

そして、僕らの入る部屋にある鏡は、こちら側からはただの鏡なのだが、反対から見るとガラスという、いわゆるマジックミラーだとか。

鏡の前に立っているのが、となりの部屋からは見えるというワケだ。

よくウインドーの前で女の子が自分の姿を見てニヤッとするアレを、手際よく室内に設けているのだ。

そして、何に使うのか未知の空間、使途不明の灰色の個室があるらしい。

この話を聞き、僕の頭はプッツン切れた。

怒涛の波が押しよせ、高波となり、理性は難破した。(もっとも、Mに理性があるのかどうかは知らない。)

ああ、この養教を使っていいサスペンスドラマがつくれそうだ。

タイトルは【登校拒否児誘拐事件・養教センターに消えた登校拒否児の謎】

う〜ん、これは良い。

監視カメラ、マジックミラー、ナゾの部屋。

ミステリーの三種の神器だ。

この話は、聞いただけなので、はっきりとは言えないが、これはあまりにあまりだ。

しかも、この話を聞いたお姉さまは、高校の時、見学に行った際、説明を受けたのだそうだ。

その養教を利用してる本人には何も言わないというのに・・・。

もうフォローの仕様がない。

どなたかうまくフォローしてっ。

僕はもうプッツンいっちゃったのさ。

そういうわけで僕は、早いとこ相談学級へ見学に行かせてほしいと、うったえた。

とにかく養教に行くのがイヤだったのだ。

そして、相談学級に望みをたくし、養教の担当の先生と母上といっしょに、僕は希望していたF中へとむかった。

悪いが・・・せまい。

20人くらいの生徒のわりに、F中の相談学級はせまかった。

職員室に入る。

説明を受ける。

完ぺきな時間割があった。

ここで第一の失望。

とにかく、行ったその日は、先生も生徒も忙しそうにせまい(!)教室(?)を走りまくっていた。

職員室で説明を受けていると、数人の子が、のぞきに来たりもした。

生徒の皆さんは、フツーの中学生そのものといった感じだ。

それにしても、この時間割、妙である。

一週間通して体育があるのだ。

そこの先生の話によれば『み―――んな、体育は大好き!』なのだそうだ。

本当だろうか・・・。

少なくとも、僕は体育が苦手だ。

みんな好きなのかどうかは、まぁ、どうでもいい。

ちなみに、その日は来る文化祭のための、劇の練習が行われていた。

その名も、(?)【ヘレン・ケラー】・・・の、ちょっとしたパロデイのようだった。

生徒全員が一部屋に集まっているので暑い。

そこで、席をゆずってもらい、僕は嬉しかった。

生徒の皆さんは、なじめそうだった。

・・・あくまで、生徒の皆さんは、だ。

劇の指導をしている先生が、妙にその気になっていて、はりきっている。

・・・・がんばって下さい。

僕は早々に部屋を出た。

イスをゆずってくれた人、ありがとう。

この時点では、まぁ良かった。

行ってみようかな、とも思った。

時間割はキツイし、並みの中学より山のように忙しそうだったが、何となくイスがうれしかった。

だから、行こうかな、と思った。

しつこいが、この時点では、だ。

次に待っていた、F中の校長との面接で、僕は失望した。
                                   

                                        つづく
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2005年11月25日

不登校・我が家の場合(29)

不登校時代<その2> 中学1年生〜3年生

◆<通信>からの転載A

Mくんの 養教見聞録その2                    

         〜養護教育総合センターの怪〜

うつされた部屋にあったのは、オモチャ。

そして天井にはカメラ。

これが第四の驚異。

そして、机のまわりに座らせられた僕らの前に、ドン!と置かれたのは山積みのわりばしとボンド。

森は泣いている。

わりばしは何かをうったえているようであった。

そしていきなり先生はおっしゃる。

『今日は、わりばしで鉢入れ(ごぞんぢ?!)をつくります。わりばしをこうやって重ねて・・・。』

・・・!?

な、何だ?!

いったい何が起ころうとしているのだ?

わりばしは、ちゃんと切りそろえてあり、先生が一人一人を見まわり、組み立て方がまちがっていないか見ている。

全員がいっぺんに同じことを黙々とやりはじめる。

異様すぎる。

養教とはいったい何だぁ?!

第五の決定的驚異であった。

自分があわれになってしまう。

何が悲しくて僕はこんな作業をしているんだ?

まちがってわりばしを組み立てると、先生が『ちがうわよっ!』と言って教えてくれる。

ちなみに先生はオバサマとお姉さまとオジサマとおじいさまである。

くそ―― っ!とか思いながら、くやしいので黙々とわりばしをくみたて続ける。

1時間ほど正座してそれを続けた後は、『運動の時間よ、さあ、今日は体育館に行きますね。』とかんぱつ入れず連れていってくださる。

(この日は、暑かったので体育館になった。行かなくてもよかったのだが、となりにいた子が卓球をやるというので、僕も行った。)

体育館にはすべり台、ボール風呂(解る・・・?!)トランポリンetc.・・・。

見事な遊具の数々である。

それで楽しく遊ぶ。

楽しくが条件である。

カリキュラムに入っているようなのだ。

そして、お昼、何事もなかったように解散。

数々の驚異にヨレヨレになりながら僕は帰途についた。

Mは叫んだ。

ちっくしょおう〜っ。僕は保育園に通うつもりはなぁぁ〜い!!

そう。

僕から見ると、養教は保育園に見えるのである。

一回目に行ったあとの乱心ようは、とてつもないものであった。

二回目、いやいやながらまた養教へ行く。

今度は自己紹介があった。

あいかわらず20人以上の女子だけがいる。

やることは一回目と全く同じ。

まぁ友達ができたので少しは楽である。

その日、僕はついに先生につっこんだ。

何でこんな作業するんだァみたく。

答えは作業をしているうちに、お友達になれる。

ウソつけ。

何が友達だ。

みんな黙々と作業しているのに。

しゃべるひまはないぞ。

フン。

第一、すっとなじめる子となかなかなじめない子があるだろう。

僕は猫のかぶり、ぬぎが上手いからいいようなものの、とけこめない子はいつまでたってもなじめないわけだ。

カウンセリングならば、個人の状態を知るべきだろう。

一見保育園なのだが、もしかすると実は、オモチャを手に持たせただけの、放任主義なのかもしれない。

僕は驚異の塊の養教が大っ嫌いだったりする。

もう4回も通ったが、(せっかく友達いるし相談学級に行ってみたいのでいやいや。)いまだ相談学級へ行かせてくれない。

早く出所したい・・・。

あ――っまだまだ言い足りないのだが、スペースもないし、ペンダコもうずくので、ここらへんでやめよう!

養教があっている子はいいが、とりあえず僕はあわない!

だからこの見聞録も僕以外の人が書けば、子どもを学校に更生させてくれる、いい所になるかもしれない。

しかし、僕はグレそうである・・・。

早く出所したい――っ!!
                                    つづく
posted by みるく at 23:53| Comment(0) | 不登校・ひきこもりについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月23日

不登校・我が家の場合(28)

不登校時代<その2> 中学1年生〜3年生

◆<通信>からの転載@


今私の手元に、娘が通っていた当時に、そのフリースペースで発行していた通信がある。

発行の期日は1989年〜1991年頃で、手書きの原稿をそのまま印刷した十数ページのそれは紙の色も随分黄色くなっている。

娘もそこにいつも気ままな文章を書いていた。


そろそろ、<不登校・我が家の場合>も終わりに近づき、読んで下さっている方もそうだろうが、私もやや疲れ気味である。


そこでちょっと趣を変えて、その頃の娘の文章を転載しようと思い、今朝、その文章の一部をこのブログに載せていいか娘に尋ねたところ気持ちよくOKをしてくれた。

(娘の文章は私の生真面目なものとは違って軽いので、幾分、肩のこりがほぐれるのではないかと思う。)


当時、不登校生のための公的な受け皿として相談指導学級が市内の中学校数校に併設されていて、入級を希望する者は準備段階として、養護教育総合センターにある適応教室に通うことになっていた。(ああ、相談・指導・適応・・・何という漢字が並ぶことか!)


娘は税金を使って、もしかしたら一律ではない学びの機会を得ることができるのではないかと思い(フリースペースでは経済的負担が重いのを気遣ったのだと思う。書いてはいないが・・・。)、そこに行くことを模索したことがあった。


その体験記を、あの頃(14歳時)の娘の感性で表現しているものがあるのでまずはそれから紹介したい。


もし、今現在、そういうところに繋がっているお子さんをお持ちの方が読まれると、どこか否定されていると感じたり不快感を覚えられたりするかもしれない。


しかし、娘も文章の途中で<そこが自分に合っている子はいいが・・・>と書いているように、決して他者を否定するつもりで書いたものではないことだけはどうかご承知いただきたい。


あの当時の、一不登校の生徒が感じたままを綴ったので、こういうふうに感じた子もいたのだと思ってお読みいただければと思う。


これも、多少の長さがあるので、何回かの連載になると思う。

元の文章は手書きでオリジナルのイラストなどが入っている。

段落なしに書いてあるので読みづらいがそのままにする。

文字表記もそのまま。固有名詞だけはイニシャルにした。

当時、娘はどういうわけか主語は「僕」を使っていた・・・。


では、始まり、始まり〜。


************


Mくんの 養教見聞録その1 

                    〜養護教育総合センターの怪〜

皆様こんちにわっ!

グレてしまいそうなMくんです・・・。

フフッ何故かって?

それはこのつたない文を見ていただければわかるでせう。

始まったのは夏休み。

僕は相談指導学級に行くことを思いついた。

そのことを学校側にとりあえず伝えてみた。

無知の塊であるMは、きっと何の障害もなく、行けることと信じていた。

しかし、現実はああ無情。

相談学級へ行くには、養教センターなる所へ行き、カウンセリングを受け、相談学級に適応できるかどうか、見るのだそうだ。

相談学級で遊びたいがため、Mはすんなり養教センターへ出むいた。

未知なる空間だ・・・。

山の上にあるそのセンターは、入った瞬間に、自分とはちがうものを感じてしまった。

母上といっしょに行ったのだが、まずは母上が面接を受ける。

そのあと娘が呼ばれた。

別にたいしたことは聞かれなかったので、その内容は忘れてしまった・・・。

とりあえずその時面接した先生が、あまりつっこんでもおもしろくなさそうなので、僕は猫をかぶり通した。

さて、次の週から僕はこの未知なる空間、養教センターに通うハメになった。

週に一回、他の子たちといっしょに、センターの先生のつくったカリキュラムを何やかんやとやるらしい。

面接の時は、運動の時間があったり、何かをつくる時間がある・・・と聞いた。

これに何回か通い、早ければ3〜4回で相談学級に行かせてくれるそうだ。

まぁ、いってやってもいいかーっ!みたいな感じで僕はポテポテと山の上のセンターへ行った。

まず受付で名前を言う。

そこで第一の驚異。

受付の人は『いつもの部屋に行って下さい。』などとぬかしてくださった・・・。

もしもし、僕は今日初めて来たんですよぅ。

う〜む、どうやらここに来ている子たちの名前はわかっていないようである。

その日は、2学期あけて一回目の集合日(?)だったそうで、初めて来たという子がかなりいた。

僕が見知らぬ先生に連れられて、行った部屋には、すでに20人ちかい女の子がいた。

女の子だけである。

男女わけてあるのだ。

これが第二の驚異。

僕は過去の経験から、大嫌いな自己紹介を覚悟し、必死で文句を考えてきた。

が、しかし、自己紹介はなかったのである。

ラッキー!と思う半面、第三の驚異を感じた。

22名ほどいたと思う。

部屋に入りきらないので、先生と名乗るナゾの人物(僕にはそう見える)は、僕たちを2グループに分けた。

そして何がなんだか全くわからないまま、僕たちのグループは、他の部屋にうつされた。

ああ、イラクの人質の心境だぁ〜。
                       
                    
                           つづく



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2005年11月21日

不登校・我が家の場合(27)

不登校時代<その2> 中学1年生〜3年生

ここからは、フリースペース(フリースクールではない)で過ごした娘の様子になる。


それは、おおむね、元気に過ごした不登校生の姿になる。


・・・・・・・・・・・・・


その前にちょっと前置きを。


一応、一つの事例としてその頃のことも書いてみるが、ここからはある意味娘の個的なことになるかもしれない。(プライバシーもあるので簡単にするつもりであるが。)


それは、主に娘がその頃どんなことをして二度目の不登校時代を送ったかということになるのだが、私には、それはある人がこんな髪の毛をしてこんな目や鼻や口をしている、という類いのことと同様のことのように思われる。


これまで書いてきたことは一人の子どもの心の動きや感性であり、そのことも同様に個的なことではないかと思われるかもしれないが、私はそのことはどこかで他の人間にも繋がることではないだろうかと思っている。
そう思うから書いてきた。


学校や集団への違和感、死への恐怖、それをどのように潜り抜けたかなど、あまりその例は多くないかもしれないが、それはいつか誰かの心の中にも見出せるできごとではないだろうかと感じた。


私自身は、経験はしなかったが、想像して近づけるものになった。


また、そういう子どもの親としての私の反応や態度も、他の誰かに通じるものではないかと思った。
だから書いた。


それに比べ、これからのことはずっと個的なことになると思う。


それは、私の娘はこういう道を歩んだという固有の出来事、個別の例にすぎない。


ならば、いっそ書かなければいいのではないかという考えもあるだろうが、やはり人間には固有の目や鼻や口があって、それを書くことによってその人の具体的な像が浮かびあがり、一人の人間としての輪郭もできるのではないだろうかと思う。


具体的な出来事を添えることによって、先ほど書いたいつかどこかで共有されるかもしれないことが、より生きたものになることもあるのではないかという気がする。


大変前置きが長くなったが、このことを踏まえないで、固有のことを書くのは無意味であるし、どこか危険なことでもあると思うのでどうしても書いておきたいと思った。


・・・・・・・・・・・


そのフリースペースで過ごした2年半、娘はことのほか元気だった。(それからもほぼ元気ではあったが。)


家庭で過ごしていても多分それなりに楽しく元気に過ごしただろうとは思うが、今振り返ってみて思うその時代の特徴は、様々な人に出会ったことではないかと思う。



そのスリースペースでは、中学生を中心に10人前後の子ども達が集まっていた。


そこで、娘はまず漫画を読むのも描くのも大好きな友達と出会えた。
二人は他の者が呆れるほど意気投合して終日漫画の話で盛り上がっていた。


徹夜で同人誌を作り、コミックマーケットにも何度か出品しに出かけていた。
さらにベル薔薇がもとで宝塚歌劇のファンになり、東京や宝塚まで舞台を見に行くなどの行動力も見せていた。

こういうことがもとで二人は後年、しばらくの間市民劇団に所属して芝居作りをしたり、舞台に立ったりもした。


またフリースペースでは時々市内のあちこちでやっている、さまざまなイベントをのぞきに出かけていた。


そいうところで様々な人と出会って中学生としては予想外の体験を重ねたし、多くの知り合いを作った。


フリースペースといっても街中のマンションの一室を借りてのことであるので、たまにはそういうこともしないと毎日が単調になってしまうということもあった。

勿論、そういう時の参加は一切、自由である。

曜日によって、近くの運動公園に出かけてスポーツをするとか、料理をするとか、バンドの練習をするとか、パソコンを習う、などのスケジュールが組まれていたが、どれも参加は任意のものになっていた。


またそこには私のようなボランティアも数名いたが、外からも色んな大人が見学にやってきた。

一般の人もいれば、高校生や大学生もいた。

それぞれが様々な関わりをそこで子ども達としていった。


時々新聞社や週刊誌、TV局からの取材もあった。

こういう時、子ども達は取材されると見せかけながら、反対にそういう大人達をしっかり観察、取材していた。


自分が興味を持っていることを好きなだけ読んだり調べたりしていたが、以上のような人との出会いの中で、それが一層深まったり広まったりしていったのではないかと思う。

好奇心が刺激され物事への関心が高められた。

その旺盛な好奇心や関心が、さらに人との出会いを多くするという循環を生んだ。


知り合いがまた知り合いを連れてくる、というような形で随分多くの人に出会い、そして様々なことを学んだ第二の不登校時代だったと思う。


実はこのようなことを私はほぼじかに接するかたちで見ることになった。


私は当初ボランティアとして加わっていたが、途中一年間ほどは主宰者をサポートする形でスタッフとして勤めたため、その間は娘とともに同じ空間で同じ時を過ごした。


お互いに適当な距離を持ってその場に参加していたので、親子であるということがそんなに気になることはなかったし、周りにもさほど気にされることもなかったのではないかと思う。


これも、ある意味、めったにない不思議な経験ではあった。


残念なことに、民間の小さなフリースペースであったため、開設されて数年後には主に経済的な事情で閉じざるを得なかった。


その運営や内容については色々な見方・意見があったかもしれないが、娘にとっては友人や様々な大人と出会うことのできた貴重な場であり、機会であったことは確かだと思う。


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2005年11月19日

不登校・我が家の場合(26)

不登校時代<その2> 中学1年生〜3年生


中学校へ行くことをピタリと止めた娘は、小学校時代の日々とは異なり、今度は最初から、家でのんびりゆったり過ごす毎日になった。


青ざめて緊張していた表情も、こんなにも変わるかものかと思うほど、柔らかい自然な表情に戻った。


終日、机の前に座って何かを読んだり書いたりしている姿が見受けられるようになった。(娘はこういうことが大好きだった。)



親の目から見ても、これが娘本来の姿に思えたので、私は衣食住のサポートだけすれば他にはもう何も言うこともすることもない気持ちになっていた。


小学校時代の不登校経験から、家でのんびり好きなことをして過ごしているだけでも、子どもは様々なことを学び吸収して成長していくことができる(情報源や刺激はたくさんあるので)ということを知っていたので、このままで大丈夫だと思っていた。


ところが2〜3週間経った頃、娘は突然、あるフリースペースに繋がって、そのまま今度は中学校卒業の時までそのフリースペースに通う日々になった。

ここで、どうやってそのフリースペースに繋がることになったか簡単に書いておく。


・・・・・・・・・・・・・・・・・


実はその半年ぐらい前に、ある夫婦が、私達の住む市内で不登校児のためのフリースペースを開こうとしているという記事が新聞に掲載された。


同時にボランテイアを募集していることも紹介された。


私は、娘が不登校になって数年を経ており、その間に、目から鱗が落ちる思いで学んだことも数多くあったので、この不登校の問題はとても興味深いと感じ始めていた時期だった。


但し、それまでは我が子のことを考えるのが精一杯でほかの子どもや親がどのようにしているかについてはほとんど知らなかった。


たまに、講演会や親の会などには出かけていたが、それで誰かと深く繋がるような経験はなかった。


カウンセラーと繋がっていたので、そういう必要を感じていなかったのかもしれない。


それで、丁度その頃になってようやくそういった社会の動きに私自身の興味と関心がむき始めたところだった。


また、仕事を辞めた私にとって、私を私たらしめているものは何かと考えた時に、ある意味私なりに向き合ってきたのはこのことだとの思いがあったので、そこからなら出発できるかもしれないという予感もあった。


私はボランテイアとしてそこで週一回、不登校の子ども達(主に中学生だった)と過ごすようになった。


といっても、我が子への経験から何もしない(よけいなことを言わない)のが一番だと思っていたので、そこでは子ども達とお茶を飲んだりゲームをしたりして過ごした。
(これが結構難しいものではあった・・・。まあ、いないよりは誰かいた方がいいくらいに思うようにした。)



そうして半年を経た頃に、娘が二度目の不登校の状態になったわけであったが、特にそこへ通うように私の方からはあえて勧めずにいた。


私がそういうところに繋がっているということは話してあったので、あとは何か関心がわけばその時に自分から聞いてくるだろう、と思っていた。



ところが、そのフリースペースで、ある日(9月半ば頃)、その頃市内で開催されていた博覧会に行こうということになり、ふと娘が家にいることを思い出した主宰者が、直接誘いの電話をかけてくれた。


それは深い思惑を持たずに、気楽にかけてくれた誘いだった。(そういうことの大切さを知っている主宰者であった。)


ようやく疲れも取れ始めていて、そろそろヒマを感じ始めていた時期でもあったらしい。

それは娘にとって丁度良いタイミングだったのだろう。

誰の強い意図も働いていなかったのも、娘にとっては考えやすいことだったのかもしれない。


娘はあっさり、博覧会に行くことを決めた。


私は都合で参加していなかったが、どうやらとても楽しい一日を、初めて出会った仲間と過ごしたようだった。


娘は翌日からそのフリースペースにせっせと通うようになった。
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2005年11月17日

不登校・我が家の場合(25)

再登校の時代・・・・小学校5年生〜中学校1年生

◆2、中学1年生の頃B


もう少し私自身のことを追記しておきたい。


娘にとってあの言葉が実際にどれ位の意味を持ったかはわからないが、自分自身、親として『大事なことをきっちり伝えられた。』と感じることができたあの時まで、約6年の歳月が流れている。

そこにたどり着くまでの軌跡をここで少し振り返りたい。


・・・・・


まずは、喉がつまってしまうほどのショックを与えるような言葉を娘に言ったのが始まりだった。(娘はとりわけ敏感な子どもであったことも事実だったが。)


小学校一年で不登校になった当初は、何とか引っ張ってでも登校させたいと思ったし【学校に行かない】ことを責める言葉もたくさん言った。


娘は【行こうと思っても行けないの】と言って苦しんでいたのに、私は自分の価値観と思い込みから何とか【学校に行けるように】とそちらの方向にばかりエネルギーを使った。


娘の【行こうと思っても行けない】ことの苦しさがどんなものなのか、その心理的なねじれがどこから来ているのかなどについては全く理解できなかった。



娘が【死の不安】に脅えていても、何をどう支えてやればいいのかわからず、結局投げやりな言葉を吐くことしかできなかった。


この頃は再登校を促すことはさすがにしなかったが、それは、娘の様子があまりにも不安定になったので、それどころではないという気がしたからであった。


理解したというのではなく、あきらめざるを得なかったからにすぎない。


・・・・・私はこんな親だった。


確かに、不登校になって間もない頃に私は10年間勤めた仕事を辞めた。
そのおかげで、不安な娘のそばにいつも居てやることはできた。
また、自ら駆け込んで、カウンセリングも受けた。


しかし、これらのことは真に娘のためというよりは自分自身のためであった。


仕事は、娘が不登校になって、仕事をしたままこの問題を抱えることがとても精神的にきつかったので瞬時に辞める決心もできたのだと思う。
(娘のことにじっくり向き合えないことがとても苦しかた・・・。それはやっぱり、自分のためだった。)


カウンセリングも私が不安で仕方なかったから、藁にもすがる気持ちで駆け込んだ。

私は不安を一人で抱えることなんて到底できなかった。

当初は自分が変わることなんか考えもしなくて、娘を何とかしてほしい、と思って受けたカウンセリングであった。


だから、娘が元気を回復し(それは娘がほとんど一人で乗り切ったことだった。)、登校を再開すれば、その苦労も知らずにひたすら喜んでいた。


しかし、こうして元気になり、しかも何か一つ筋がぴんと通った存在、子どもながらにひたむきでけな気で勇気ある存在として、私の目に娘の姿が映り始めた時、私の中では何かが動き始めた。


それは具体的にはこの前書いたように、元気になり、登校し、学校で活躍する姿を見た時辺りからであったかもしれない。


まず、≪もう充分≫の感じを持った。

【学校へ行く】ということが娘の存在の前で、小さなことに見え始めたからかもしれない。

それくらい≪目の前の娘のままでいい≫という感じを持ったからかもしれない。


ほんとは、元気にならなくても、悩んで不安に脅えている姿のままでも、そう感じるべきことだったのかもしれない。

でも私にはできなかった。

一度は自分が望んだことを、我が子に叶えてもらってから、ようやく実感できたことであった。


そんなことを、ふとある時に思い始め、それがだんだん心の中ではっきり感じられるものになってきた時、私は、もう一つのことに気づいた。


実際のところ、上記のような娘に比べて私は≪何もやっていない≫、≪自分を動かすことは何もやっていない≫という気づきだった。

さっきも言ったように、仕事を辞めたのもカウンセリングを受けたのも、結局は自分のためだった。

自分がほんとに骨の折れること、自分を動かすこと、すなわち≪自分を変えること≫はやっていないと思った。



そんなことを感じているうちに、≪この次こそは私が動いてみよう!≫≪この次こそは自分が自分を動かすのだ!≫、そんな気持が心の底で目覚めていった気がする。


以上のような微妙な変化が心の中で起きていたからこそ、中学校に入って再びとても辛そうな娘を認めた時、私は私なりに感じた一番大事なことを口にすることができたのだと思う。


それは、私自身の自我の欲求から私を引き離すとともに、娘の側に気持を移していって、ほんとに大事なことは何かを考える、というような段階を踏みながらの進行であった。



私が≪自分を動かせた≫と思えた、それはささやかだけれど画期的な瞬間だった。


こうしてみると、いかに≪親が子どもに育てられた≫かがわかるのではないかと思う。



次回はその後娘がどのように過ごしたかを書きたい。
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2005年11月15日

不登校・我が家の場合(24)

再登校の時代・・・・小学校5年生〜中学校1年生

◆2、中学1年生の頃A


私は次のように言った。


あなたは今とてもきつそうに見える。(身体や心が)そんな状態になってもまだ無理して頑張り続けることは(私は)いけないことだと思う。


大体、こんなことを言った。

もう、16〜7年も前のことなので確かなことは思い出せないが、【 ・・・いけないことだと思う。】といったことだけはよく覚えている。



青ざめて表情の消えた娘を見た時、このままにしておいては危険なことになる、という危機感を私は持った。

それ以上闘ってはいのちが危ないと感じてボクサーにタオルを投げるセコンドのように、私は親としてその言葉を言った覚えがある。



その言葉を、娘は苦しそうな表情の中で(きっとまだまだ葛藤していたのではないかと思う。)じっと聞いていた。

娘が実際のところどのように感じたかはわからないが、初めは多少の抵抗を受けながらもその言葉は娘の心の中に静かに吸収されたように思えた。


・・・・・・・・・・・・


強迫的に早起きをせずにはいられなくなっていた(神経症状が見え始めていた。)のが、やっと止まった。

そして、一切の【学校】に関わる活動がその日から止んだ。(確かそれは二学期の初日のことだったと思う。)


こうして娘の二度目の不登校時代が始まった。

それ以来、娘は中学卒業の日まで、その学校に一歩も足を運ぶことはなかった。



小学校の時は、不登校になっても、行事などのある時には何とか行けるように頑張っていたし、実際に少しだけでも行くこともあった。

行こうと思っても行けないことがほとんどだったが、行けるようになろうと頑張った日々だった。



以上のような経過を経た中学校では、休まず行っていたその動きがぴたりと止まったあとは、行こうとする気配は全くしなかった。

それは文字通り登校拒否であった。



同じ不登校でも、娘の不登校は、このように小学校時代と中学校時代では、その始まりにおいても過ごし方においても様子が大きく違ったのであった。



・・・・・・・・・・・・・・


このあと、娘の<不登校時代・その2>を書きたいと思うが、その前に【・・・いけないことだと思う】と思わず言ってしまった私自身のことを、ここでもう少し補足しておきたい。


それは、前回にも書いたように自分でも驚いてしまうぐらいちょっと画期的なことだったと思っている。

今でも、大事なことをきっちり言えた、という思いとしてそれは記憶に残っている。




【いけないこと】という言い方は、かなり価値判断的な言葉ではあるが、どうしてそんな言い方をしたのだろうか?



あえていうなら、それは【魂にとって、精神にとって、いけないことになる・・・。】と私は言いたかった。

そうは言わなかったが、私が感じた危機感はそういう危機感だった。



けれども、【学校へ行くのは止めたほうがいい】という言い方はしたくないと思っていた。

それは、小学校時代、学校へ行けない娘に対して【行ったほうがいい】という言葉を言ったり、そのような思いのこもった対応をして、いたく娘を苦しめた苦い経験があったからである。

そして【学校へ行ったほうがいい】と言うのが、親の価値観の押し付けであるとするなら、【行かないほうがいい】と言うのも同様であるとも思っていた。

子どもの領分へのそれは侵入であり、子どもが自分の人生を生きる力を親が邪魔してしまう点では同じだとの思いがあった。



もう一方では上記のような危機感から、今、何かを言わなくてはという思いも強くあった。

そんな結果、咄嗟にあのような言葉が口をついて出たのであった。



そして、結果として娘は再度の不登校になったわけだが、その時私はどう思っただろうか?

これは、例えば頭では不登校を肯定していても、実際自分がどんな反応をするかは、現実を見てみないとわからないことでもあった。


私はほっとした。
心底ほっとできた。
さらには、娘はこれで大丈夫になるだろう、と感じられた。



娘が小一で不登校になってから6年が経っていたが、この時初めて私の中で何かが大きく変わっていっていたのを、自分自身で実感するこができた。



私の中にはすでに学校への執着がきれいになくなっていることをこの時はっきり確認することができて、内心驚きであるとともにそれはうれしいことであった。


               ************

                   秋の公園

                秋の公園 002.jpg               
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2005年11月13日

不登校・我が家の場合(23)

再登校の時代・・・・小学校5年生〜中学校1年生

◆2、中学1年生の頃@


娘は中学生になった。


教科担任制になり、それぞれの教師がそれぞれに出す課題を、毎日こなす中学生の日々が始まった。


また部活動も始まり、早朝や放課後の練習なども加わって、娘は塾通いなどもしていなかったが、起きてから寝るまで時間は【学校】のことに費やされるようになった。


私が見る限り、娘は決して生真面目にとか或いは強迫的にそれらのことをやろうとしていたわけではなく、ただ自分の納得のいくようにやろうとしたら結果としてそのような状態になってしまっていた。


学校に通い、部活動をし、自宅で勉強する、あとは生活に必要なこと、それだけで一日の4分の3の時間が過ぎていたように記憶する。



それまでしていた物語創作などがぴったり止んだ。

何かをしないで、ぼーっと(多分それまではそういう時は好きなだけ想像を巡らしていたに違いないのだが)しているような時間も身の回りから消えていた。



そして、一学期を終える頃には、娘の顔色は再び青ざめ、身も心もへとへとに見える状態になった。


特に、夏休み中の部活動の合宿では、体力に追いつかぬ活動量でしごかれて、後半はダウンして他の何人かとともに教室で枕を並べて寝込んでいた。


本来なら夏休み中に多少はほっとして元気が回復していてもよさそうなものだったが、2学期があと少しで始まろうとする8月の終わり頃には、朝も4時頃に意味もなく起き出してきていて、見るからに神経がぴりぴりとはりつめた状態になった。



・・・・・・・・・・・・・・


中学生活について親としては多少の予測はついていたが、想像以上にそれは過密スケジュールであることを実感した。


課題の量なども、それぞれの教科担当が必要だと思ったことをばらばらに出すわけで、生徒がこなす課題の全体の量がどれくらいになるかとか、ある日に集中してしまわないかとかについては、どの教師も把握などしていないということがわかった。


部活動においても、成長期の体力は個人差が大きいのにそういうことへの配慮はほとんどなくみんな同じ練習量でやらされていた。


そして毎日の部活動の練習はひたすら試合に勝つためにあるとのことで、生徒の体力アップや健康のため、スポーツの楽しさを味わうためなどではないということも知った。
(当時、とても疑問に思い直接顧問に尋ねたところ、はっきりそういう返事が返ってきた。)


このような状況に対しては、学校は昔からそういうところであるとか、課題をこなすことが困難であれば適当に手をぬけばいいではないか、誰もそんなに真面目にやることを期待していないのだ、というような言葉が返ってくるかもしれない。


しかし、私は、自分が納得いくようにやりたいと取り組んでいる我が子に対して、親として、もっと手抜きを覚えていい加減にやれば、というようないい加減なことを言う気には到底なれなかった。


何かをやるなら、自分なりに納得いくようにやりたい、という娘の姿勢はとても自然なものだと思った。


しかしそう思って取り組んだ結果、娘の心身はわずか5ヶ月間の間にすっかり疲弊し、神経がはりつめて、のびきったゴムのような状態になった。


娘の顔から表情が消えていた。


そんな娘を前に、私は色々考えてはいたが、しばらくは様子を見ていた。


しかし、2学期も目前の夏休み終わりに、娘が上記のような状態になってしまった時、これだけはどうしても言わなければという、心の底から突き上げるような思いになった瞬間があって、私は娘の顔をみながらあることを伝えた。


これは私にとって、それまでにない親としての画期的な出来事であった。


次回に述べたい。




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2005年11月11日

不登校・我が家の場合(22)

再登校の時代・・・・小学校5年生〜中学校1年生

◆1、小学校5〜6年生の頃A


この連載を書き始めるにあたって、私は家庭であった一つの出来事を思い起こして、そこを起点にそこに至るまでの娘の生い立ちを述べてきた。

それは、乳がんの恐れを抱いて泣き崩れた私に、『私はもう大丈夫』と娘が語ったあの出来事のことである。


あんなに不安気で死の恐怖に怯えていた自分の娘が、いつの間にか、ある意味誰よりも強靭なものを心の中に持っていることを、母親として強く実感したそれは出来事だった。


今、【強靭】と言ったが、それはあまりぴったりの表現ではない。

まだまだ見かけは小柄な少女であったから、小さくて、やさしくて、決して強そうになんか見えないのだけれど、実はその中に一本何かが通っていて、それが不思議な【しなやかさ】【たおやかさ】になって現われた、そんな感じだった。


前回はそういう娘の、学校や家庭で目についた具体的な変化を簡単に書いた。



特に5〜6年生の頃、授業参観などで垣間見る娘の姿は、意思的で、意欲にあふれ、精神的にもとても成長しているように見えた。


その頃は、どちらかというと反抗期にさしかかった他の子ども達が内に外にさまざまな問題を抱え始め、担任ともぶつかり、決して穏やかなクラスの雰囲気ではなかったが、娘の中にはそのことにはあまり揺さぶられてはいない超然とした何かがあるように見えた。


ひたすら、自らの知的な興味の範囲を拡げ、学ぶことが楽しくて仕方がないというような姿だった。
(鼓笛隊があったから行っていたという言葉のように、≪学校)はもう娘にとってさして関心事ではなかったのかもしれない。あの頃の娘は≪学ぶ≫ことが純粋に好きで楽しんでいるように見えた。それは今も変わらない。)



こんな娘の変化を目の当たりにして、当初、私は、不登校児の親として悩み苦しんだそれまでの数年間を思い出して、感無量の思いを味わっていた。


娘も頑張ったが私もそれなりに頑張った思いを当時は持っていたので、娘のそのような姿はそれらの努力の一つの結果とも思えて、正直うれしかった。


私はそうやって元気でいる我が子の姿を見るたび、人知れずその【喜び】をかみしめた。


しかし、何度かそうしてその【喜び】をかみしめているうちに、私は自分の気持が思わぬ方向に変化していくのを感じた。



感情(気持)というのは、欠乏しているとそれを味わいたいと必死に求めるが、ある程度充足されると、ふと次の段階に進むものらしい。



一つ一つを【うれしい】と感じていく間に、長いことそれを味わいたいと思っていたにもかかわらず、突然その喜びは過去のものになって、みるみるその鮮やかさが消えていくのを感じた。


【なあんだ】【こんなものだったのか】というような気持ちが少しずつ心の中に現れた。


そして次第に私はこういったいわゆる親としての喜びは、【もうこれで充分】という思いがするようになった。


【もし、必死で娘がそのことをやっているのなら、もうお母さんはその姿をこれ以上見なくてもいいよ】というような気持ちが湧くようにもなった。



幸いなことに事実としては、娘は親のためにでもなければ、必死にでもなく、自分の自然な流れ(劇的であったとはいえ、それは内的に必然的であり、自然であったと思う。)でそのように振舞っていた。

自らの中から≪〜したい≫という意志が湧いて、それが自然に行為に結びついていた、それは結果であったと思う。



そして私の中に以上のような気持が湧いたとき、それまで心の中にあった【子どもが学校へ行けるようになってほしい】という、それまで消しがたく存在していた親の願望が、まるでお日様の暖かさですうーっと消えていく残り雪のように、自然に私の中から消えていった。



親が、そういう子どもへの願望や期待、欲求からどのように【自由】になっていくかは、子ども同様に、人それぞれ様々な経過を辿るものと思う。

ある本を読んでとか、ある人の講演を聞いてとか、当事者の話を聞いてとか、それも劇的にであったり、何年もかけてであったりと、様々である。



私は上記のような経過の中で、自分の心が徐々に変化していくのを感じた。


まだまだこのことを求めている方々にとっては、贅沢で不遜なものに聞こえるかもしれないし、子どもが再登校せずともそこから自由になった人は、それこそ≪なあんだ≫と感じるかもしれない。



ただ私の場合、そうだったというだけである。


それまでは、娘の心の動きや変化が私にとっては印象的な出来事であったが、この頃の出来事としては実はこの自分自身の気持ちの変化こそが、私にとっては印象深いこととして残っている。


これは、当時はっきり感じたことというより、時折うっすらと感じられるようになった自分の中の意外な変化であり、今だからそのように認識できることでもある。



              **************

                   公園の秋
                   

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2005年11月09日

不登校・我が家の場合(21)

再登校の時代・・・・小学校5年生〜中学校1年生

◆1、小学校5〜6年生の頃@


娘が再登校を始めたのは、小学校3年生もあと何日かで終わりという3月のある日の午後だった。


担任から、『今放課後でヒマなんだけどMちゃんも遊びに来ない?』というような電話がかかり、娘に伝えると、『うん、行く。』と言って、サンダルをはいたままの格好で出かけていったのが、その始まりだったと記憶している。


4年生はその流れで登校し始めたものの、それは、不登校になる前の状態とあまり変わらないものであった。

その歩みはいつ止まってもおかしくないように見えた。
(まだまだ気持は不安定であったものの、登校できるようになりたい一心で、頑張っていたのだと思う。)


連絡ノートには、『娘が帰りたくなった時には、いつでも帰宅させて下さい。』という言葉を繰り返し書き続けた。

私は早退してきた娘をいつでも迎えてやれるよう、家を空けないで待っていた。

ただ、一旦校門をくぐると自分だけ途中で帰ってくるというのは(特に<理由>もないのに)余ほどの勇気がないとできないことであり、娘が実際に早退してくることはほとんどなかった。


その娘が5年生になる頃には、見違えるように、力強く日々を送る姿に変化していた



・・・・・・・・・・・・


親の目には、いつの間にか生じた変化にしか見えなかったが、既述したように、あの【10才でこの世に着地した】 と感じたできごとの、それはその翌日からにでも生じていた変化だったのかもしれない。


再登校の事例について書物では、≪再登校し始めたそのことが【自信】になって云々・・・≫という解釈が述べられることがあるが、娘に限ってみればそれは当てはまらなかった。


当時は、親も専門家と同様に娘の内面世界の出来事については解らなかったわけだが、それはまさに内的経験によって引き起こされていた劇的な変化だったことが、今にして解るところである。


娘が述べたように、10才のある日に経験したことが、当時の娘の現実を大きく変えたのだった。


【この世に着地をした】という実感は、この世の出来事に自ら積極的に関わるという決心を娘にもたらしたようだった。


・・・・・・・・・・・・・


5年生になった娘は、もう今までのように、不安気ではなかった。

学校を休むという気配が消えたが、それは<休むまい、行かねば>というような克己や努力によって継続されたものではなかった。



学習の仕方も何かが違っていた。

すごい集中力を発揮して、知りたい、学びたいと思うことをどんどん吸収しているように見えた。

授業の枠にとらわれず、それをきっかけに能動的に学んでいた。

たまに机の上に出ている娘のノートを見ると、好きなように記述されて独創的な学びをしているのが伺えた。



委員会活動や課外活動にも熱心だった。

代表委員を引き受けたり、朝夕練習のある鼓笛隊に入ったりしていた。

(毎朝登校時間になると躊躇して結局行くことのできない日々を重ねていた娘が早朝練習に出て行くなんて、信じられないことだった。)



ことにこの頃のことで特筆すべきは、毎朝登校の30〜40分ぐらい前に、長編の物語を書き続けることを日課にしていたことである。


これは2年間ぐらい続けられたと記憶している。

4〜5編のファンタジーが創出された。

最後の物語は原稿用紙400枚を数えた。


まるで、何かの記念碑のごとくに創出されたものの、そのあまりの量に、そこにどんな意味合いが込められているのかいまだに私は精読できずにいる。

そして何より当の本人が、今日までそのことを話題にして振り返ることが全くないのでそれはその時以来、ダンボールの中に眠っている。



【10才の着地】や【金色の椰子の木を見た】話が、10数年後にふと語られたように、その物語群についてもふと語られて何かが明かされる時が来るのかもしれない。



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こんな風に、親や周囲の目から見ると、不登校していたことがまるでうそのように見える、能動的積極的な日々を送った5〜6年生の頃であった。

それは結構、楽しい日々だったのではないかと感じられるものだった。



ところがやはり成人になってからのある日だったが、この再登校の頃のことを思い出して娘は次のように語った。


別に、学校生活がすごく楽しかったわけじゃない。

あの頃登校したのは、単に<鼓笛隊>がやりたかっただけなの。

もし、<鼓笛隊>がなかったら、学校には行かなかったと思う。




本人に言わせると<鼓笛隊>はどうしてもやりたかったのだという。

私からみると、<鼓笛隊>こそあの娘が苦手とした<みんなで一緒に同じことをやる>に近いものではないかと思うが、当の本人がやりたかった、というのだからそこには微妙な違いがあるのだろう。

どういう魅力であったのか私には未だにわからないが、それを<やってみたかった>から学校に行っていた、という事実は、驚きであった。



共に暮らして、その様子を見てきたし、話も随分してきたつもりだが、【解らない】ことはまだまだ山ほどあるものだと痛感した。(所詮【解る】ものではなく【解りえない】ものだとは思っているが・・・。)


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次回はこの経験を通して、私の中に生じたある変化のことを書きたい。

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2005年11月06日

不登校・我が家の場合S


不登校時代<その1>小学1年生〜4年生

◆6、まとめ


娘は小学校と中学校、それぞれで不登校を経験したので、まずは不登校<その1>として小学校時代の様子を記述してきた。


娘の様子、親としての私の様子、それぞれが思ったこと語ったことを、≪当時≫と≪その後≫に分けながら(あまり、きっちり分類はできなかったが)振り返り振り返り書き綴ってみた。


今回でその連載も20回を数え、これから不登校<その2>が続くとすると、全体はどんなに長編になるのだろうと思われるかもしれない。


しかし、娘の不登校について私が書きたいと思うことは実は不登校<その1>に凝縮されていて、あとは簡単な経過報告になるだろうと思っている。(書き終えてみないとわからないところではあるが・・・。)


娘の不登校の山場はこの小学校時代にあり、その間に娘が経験した精神的な出来事は、今の娘にとっても大きな比重を占めるものであったと、この近年における娘との対話からも感じる。


それは不登校経験の山場というより、むしろ人生の一つの大きな山場であったとさえ思われる。


娘にとって不登校は、そこから【今】が始まったのであり、まさにそれは【人生の始まり】でさえあったのではないだろうか。


傍らで見聞きしたにすぎないが、私にはそのように感じられる。


そこで、今まで書いてきたことをここでもう一度ざっと振り返ってみることによって一区切りし、次回よりその後のことを述べることにしようと思う。


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幼少期の内的経験の記憶について、成人になった娘が語った話から分かったことであるが、娘は、【私】という感覚やそれについての鮮明な意識を、多分通常より早くに持ってしまった子どもであったらしい。


そのせいもあってか娘は、まず幼稚園で、≪みんなと一緒に同じことをやる≫ということにとても違和感や抵抗感が生じた。


一方、昔話やメルヘンといった【物語の世界】に娘は強く惹かれ、日常の様々なできごともこの物語的な世界とともに存在していた。



幼稚園時代のある日、私の不注意な言葉によって傷ついた娘は、突然拒食状態になった。

藁にもすがる思いで繋がったカウンセラーのおかげでその危機を脱することができ、それを機に私は日常における子どもへの関わり方を考え直し改めていく機会を得た。

親としてよかれと思いながらしていた先回りやコントロールをやめて、子どもが物事を≪〜せねばならない≫からではなく≪〜したい≫からやる方向へと対応を徐々に変えていった。



入学した小学校のクラス担任は極端に秩序化・画一化したクラス運営だったため、娘にとってそれは幼稚園以上に自分を失くしてしまうような苦しい場所になり、3学期にはとうとう行けなくなった。

強いストレス、違和感を感じて行けなくなったにもかかわらず、親もそして誰よりも当人が不登校をいけないことだと思っていたので、今度は不登校であることが辛いこと、ストレスフルなことになった。

行こうとして頑張るがどうしても行けない日々が続いた。



カウンセラーの≪学校へ行かないことを悪いことだと思わないことです≫という言葉だけをどこか頼りにして、家庭では好きなことを好きなだけやる毎日になった。

テレビを見たり漫画を読んだり本を読んだりしていたが、そのうち自分で、イラストや漫画を描いたり、物語を書いたりの方向に変化していった。



しかし、そんなある日、イベントで見てしまった瀕死の子どものパネルが引き金になって、強烈な【死の恐怖】に捉えられ、日常のほとんどを≪死ぬのが恐い≫と脅えてすごす日々になってしまった。

娘の顔から生気がうすれ、生命が風前の灯になっているのを強く感じたが、私は何一つ力になってやることができなかったばかりか、ひどい言葉を吐いてしまったりした。



娘は苦しい時代を一人で過ごした。

それでもプレイセラピーを受けたり、物語を読んだり、また心を捉えるアニメに出会ったり、革命の歴史に触れたりする中で、何かが少しずつ変わっていった。



当時娘は死への恐怖から、生まれる前のことに思いを馳せ、その結果ついに【金色の椰子の木を見る】といういわば一種の神秘的な経験をした。

これは、28才の今年になって初めて明らかにされた。



そんな経験を密かにしていた10才のある日、『死ぬの恐くない?』と思わず尋ねた娘の問いに、友人の女の子は『 うん、だから今のうちに一杯遊んでおく!』と答えた。

この言葉を聞いた瞬間に、娘は自分が【この世に着地をした】と感じた。



これらの内的経験によって娘の内面世界は大きく変わり、それは徐々に日常の在り方過ごし方にも変化を及ぼしていった。

当時はそれがどうしてなのかまだまだ知る由もなかったが、娘の何かが変わって行きつつあることだけは親の私にも感じられた。



例えば、私がある日胸にしこりができて死の恐怖を抱えて泣き崩れた時に、娘は『私はもう大丈夫だよ。』となぐさめてくれた。

私は自分の不甲斐なさを感じつつも娘の成長に驚いた。(私より大人かもしれないと思った。)

学校へも4年生頃から少しずつ通い始めるようになった。



娘が創作した≪ハッピー≫という小動物のマスコットをお守りにして、娘は再び(ある意味初めて自分の意志で)外の世界とつながるようになっていった。

こうして≪この世への着地≫後の時代が始まった。

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次回は小学校に再登校し始めたところから書くことにする。
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2005年11月04日

不登校・我が家の場合R

不登校時代<その1> 小学1年生〜4年生

◆5、≪ハッピー≫の誕生


いつ頃からであったか思い出せないが(多分、4年生の頃?)、娘が書くイラストや漫画の中に、小さなかわいい生き物が登場するようになった。

耳がピンと立って、目がくりくりした、まるで子猫か子リスのような小動物であったが、その生き物の最大の特徴は、大きく腕を広げるとそれがマントのようになって、空を自由に飛べるということであった。



娘の旺盛な想像力によって生み出されたものであった。

その生き物は、≪ハッピー≫ と名づけられていた。



娘は小さい頃から、自分の身の周りのものにことごとく≪名前をつける≫ のが得意であった。

ぬいぐるみは言うに及ばず、お雛様一人一人にも名前があった。

我が家で生まれた子猫などは腕によりをかけて考え抜かれて、≪ ホロレチュチュパレロ≫などという国籍不明の名前が付けられた。
(当初覚えるのが大変だったが、不思議なことに未だに忘れない。)




だから娘が≪生き物≫に与えた≪ハッピー≫ と言う名は、娘なりに大きな意味を込めてのことだろう、と感じられた。

それは、苦しい時代を生き抜いてきた娘が生み出した究極の生き物であり、究極の名前を持つ存在であるにちがいないと思った。



この頃になると、私も少しは娘の気持が想像できるようになっていたので、この生き物がこれから娘の良き相棒になって、娘を支えるにちがいないという予感を持った。

私は、夜、娘が眠ってから、書かれた絵をもとにフェルトと綿を使ってその生き物のぬいぐるみを二体作った。



一つは少し大きめで抱き人形として使えるくらいのもの。

もう一つは、全長が8pくらいで、娘が持ち歩いているポシェットの中に忍ばせておくことができるくらいのもの。



大きい≪ハッピー≫は、布団の中でいつも娘と一緒に眠るようになった。

そして、小さい≪ハッピー≫は、娘が家から離れる時にはいつもポシェットの中に入れられて、肌身離さずに身に着けている大切なものになった。



それは、娘の大切な≪お守り≫であり≪お供≫になった。

この自らが生み出した≪ハッピー≫に見守られて、≪ハッピー≫と共に、娘は少しずつ外の世界に出て行くようになった。



まずは登校を再開していたから、それは学校に≪お供≫ していった。

それ以外にも、親から離れて友だちと出かけるような時は、朝から晩までいつも一緒だった。



いつ頃までそれが続いていたのか思い出せないが、少なくとも5〜6年生の頃はいつも一緒だったと思う。

ピンク色の顔がすっかり汚れてしまうまで、それでもそれは年数の割りにはいたまずに、娘のポシェットの中で娘を見守り続けてくれたと記憶している。




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あの当時は、自分が≪ハッピー≫をマスコットに作り上げて、それが娘の≪お守り≫ になるようにしてやれたことは、私が娘にしてやることのできた最大の援助であったように思った。

それは、想像した以上に娘の力強い味方になって娘を助けてくれたと感じる。

どこか、読みが当たったという感じがしなくもなかった。



しかし、今はその感じは少し異なる。

読みが当たった、と感じた分、何か多少の後ろめたさえある。

あまりすっきりとした気持ではない。



それは当時主に娘が≪再び学校へ行く≫ためのお守りになった。

このことも、今の私には何がしか気になることではある。



娘が再登校しなければよかった、というのではない。

再登校し始めた時には、夫とともにほんとによかったねと手を取り合って喜んだ。

娘も喜んだ。

この時期があったから、逆に中学校に入ってからの不登校が受容できたのだとも言える。
(再登校の頃のことについてはこのあと述べたいと思う。)



今振り返って、≪ハッピー≫のことがあまりすっきりしたこととして感じられないのは何故か?



一つには【手段】めいたものになったということ。

必ずしも再登校をはっきり意図してのものではなかったが、結果として、そのことに使われてしまった。



それからもう一つは、やっぱりどこか本人の流れに【介入】してしまったということ。

もし、私がハッピーを形にしなかったらどうであったろうか。

もっと純粋なものとして娘の心の中で生き続けたかもしれない。




あの時はせいいっぱいのことをやったと思うけれども、今の私ならもう少し違う対応をしたかもしれない。

それが娘の心の中で娘を助けてくれることを願いつつ、それ以上のことはしないかもしれない。



祈りを込めて見守る。

今なら、そうしたかもしれない。

そうできたかもしれない・・・。







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