さらにこの両者に対して、ブログや掲示板でも侃々諤々の意見が出てきており、しばらく目が離せない状況にある。
こういう動いている時は、できればその流れを見守っていたいと思うのだが、両者ともに少なからぬ縁(注1)を感じる身であるので、勇み足を覚悟で今現在の感想を書き込むことにする。
まず『不登校は終わらない』について
はじめに読んだ印象は、よく書けているなあ、と思った。当事者学というものも知らなかったので、なるほどと思いながら読んだ。不登校も20年たって研究者になった当事者が研究の対象にするという時代になったのか、と思った。当事者の手記はたくさん出ているが、当事者が取材や分析をした研究としての出版は多分初めてだろうから、これも不登校運動の結果と言えるのではないかと思った(注2)。細かい表現の随所に当事者ならではの洞察や接近があると感じた。
しかし、内容的には、納得のいかない部分も随分多かった。
一つは、不登校の子どもを受容・肯定する時に、それを選択の結果として受け容れた、と親や居場所関係者をくくっていること。どうやら、あの頃出た本の副題にそのような言葉が使われている、ということらしいが、まず、個人的な実感からしてもそれは全くと言っていいほど、当たっていない。また私が知る、今まで出会った多くの親からもそのような考え方、発想で子どもを受け容れた、という話しは聞いたことがない。
貴戸はどこからどうして、親が不登校の子どもを受容することが、【選択の物語】として肯定された結果である、と考えたのだろうか。(本に例示されているのは父親の手記である。)
もしこの考えをもとに自説を展開するなら、当の東京シューレに関わる母親や関係者に、実際どうだったのか取材したのだろうか。文字に書かれたものと、現実の間に不一致があるかもしれないとは思わなかったのだろうか。
部分的には鋭い感性に感銘するものの、肝心の【選択の物語】そのものの裏づけがどれくらいあるのかとても疑問である。当事者サイドの違和感を拾い上げる前に、親や居場所関係者がそれを紡いだとするなら、紡いだ側の実態をきちんと調べてみる必要があったのではないだろうか?随分乱暴な展開をしてしまったと感じる部分が多い。
もう一つは【負】の部分についてである。
親は不登校の【負】の部分について考えなかったわけではない。むしろ自分の経験からは将来絶対、不利になると思ったから、何としてでも登校させたいと思ったのが親である。
しかし、目の前で青ざめ、石の様に動けなくなる様を見、いのちが危機に瀕しているのを感じた時に、淵をみて翻身したのである。将来の不利を覚悟で、今、を子どもの側に立とうとしたのであり、今、この子の命を守るために、将来の不利などは共にかぶって生き抜く思いであった。(不平等や階層格差の観点などからの不登校のはなしを聞くと、つくづくと世の中の人というか学者は解ってないなと思う。)
また、受容したからといって、すぐに子どもの苦しみが取れるわけではなく、親への不信感もあって当たり前なので、暴力や神経症が消えるわけではない。その背景や心情を理解しつつ自らの試練として、血のにじむ思いで付き合い、向き合ってきた親が多いと思う。
例え元気に明るくなった子がいても、それはそういう苦しいことがなかったわけではないのであり、決してそうでない子とわけて捉えたりはしていない。
親は、子どもの痛みに気づき、どういう子どもの状態でもそれをまるごと受け止められるようになろうと、親同志少しずつ互いに変化を重ね合ってきた、と私は思っている。勿論、どんな時にもこれで充分などということがあるわけではなかったが。
【受容】という行為が、親にとってどういうような体験としてあったのか、【翻身】ということが親の意識をどういう地点にまで、運んでいったことだったのか、このあたりを今のひきこもりについての対応とも重ね合わせながら、もう少し知って欲しいと思うし、繰り返し伝えていく必要を感じた。
従って今回のシューレからの『見解』は内容的には、もっともだと感じるところは多い。
さらには、寝食を削って不登校の子どもを守るべく運動してきた奥地や関係者にとっては、見過ごすことができなかったことも多かったのだと思う。私のように、その周辺にいて影響を受ける側でさえ、上記のように思うのだから。
しかし、今回の『見解』を目にし、読んだ時に、何か、とても胸の痛む思いにならざるを得なかった。あまりの手厳しさに、ちょっと心凍る思いがしてしまったのは私だけだろうか。
昨今の行政の不登校への対応が、以前の子どもや親を追い込み苦しめる方向へ逆行し始めている状況の中で、これを見過ごせないという思いがしたのだろうか?
一生懸命取り組んできた運動を、歪曲されて伝えられる側の痛み、また理解者だと思って取材に協力したのに裏切られた思いの当事者の傷みは、それこそ当事者でなければ解らないことかもしれないが、それでも戦略的にも、もう少し寛容性をみせることはできなかったものだろうか、と思う。
抗議を出すのは当然であるとは思うが、262項目に及ぶ修正の要求というのは、他者の表現への介入にはならないのだろうか?
それは東京シューレへの風当たりを強いものにしてしまうと思われ、その意義の大きさが失われはしないか危惧してしまう。
不登校を容認したからひきこもりが増えているのだ、というような、あの時代を経験した私には信じられないような言説が聞こえてくるので(このことについては後日、述べさせてもらいたい。)なお一層、今回の反応の仕方は逆効果になるのではないだろうかと案ずる。
それに上記のように、貴戸の展開には無理があり、事実誤認を感じるものの、それは不登校運動を批判的に乗り越えたいという前向きの意図から出発したものであったと思う。
やはりどんな意義ある運動にも影の部分は出るものだろう。特に強力なメッセージの発信源の足元にはその光自身の影が現われるものだと思う。捨て身で頑張った運動なればなおさらである。
そこから漏れ聞こえるノイズを拾うことは、光の否定ではなく、発展になるはずだった。貴戸の表現の中からはその意図が伝わる。
内部からの批判やノイズを聞いてこそ発展するのだし、そういう批判を出せる人間を育てられたことこそ不登校運動の成果だともいえると思うのだが。
見解や抗議は出しても、しばらくは、読み手の裁量にゆだねるということもあってもよかったのではないだろうか。
ともに痛んでいるであろう両者を思うと、今回の展開はとても残念に思う。
これ以上互いを傷つけあわないよう、この運動をよく知らずに流れを変えようと思っている側を利することのないように、運動の担い手、本の書き手がそれぞれに互いの大意を汲んで対応してほしいと、不登校に関わってきた母親の一人として切に願う。
この状況は、今現在不登校であったり、これから不登校になる者にとっての、社会全体の理解や対応に影響を及ぼしかねないことであると思うから。
注1・・・私は、東京シューレには直接関わったわけではないが、80年代に不登校の子どもを持った親として、当時東京シューレを中心に発信されたメッセージがいかに悩む親を助け、子どもを救うことになったか、身を持って体験している。奥地や渡辺、石川、山下、内田らの講演を聴き、本を読むことによって、初めは何とか登校させたいと思っていたのを、不登校を見守り子どもに寄り添う方向に向きを変えて、生き抜いてきた親たちの私も一人である。今でもいくつかの親の会に顔を出すが、どれも少人数ながら、貴戸のいう翻身を経験した母親たちがそこにはいる。そして実はその中に貴戸が取材したグループも含まれていたりもする。
注2・・・決して研究者になったことを評価したり、持ち上げての感想ではない。こんな生き方をする人も現われたんだなということ。いろんな生き方があっていい。
【不登校・ひきこもりについての最新記事】




今も不登校に悩み苦しむ子どもたちが沢山誕生しています。『不登校推進委員会』という掲示板(?)をご存知ですか?もし、良かったら一度覗いて見て下さい。
勝手を申し上げてすいません。不登校についてとても丁寧に詳しく書かれていらしたので一言書き込みさせて頂きました。
有難うございました。
読んで下さった上にコメントを残していただきありがとうございます。
こういうお便りをいただくととても励みになります。
『不登校推進委員会』のホームページ、ざっとですが今、読ませてもらいました。
なかなかあそこまで明確にはっきり意見を述べられている記事は少ないですよね。
さすが元当事者さんの書かれたページだなと思いました。
最近のご本人の記事をもっと読みたいと思ってしまいました。
掲示板も好感を持ちました。
ご紹介くださってありがとうございました。
これからもどうぞよろしく。
以下は僕の勝手な雑感ですのでお気にせず。
>貴戸はどこからどうして、親が不登校の子どもを受容することが、【選択の物語】として肯定された結果である、と考えたのだろうか。
とのことですが、単純に彼女が自身の個人的な不登校の経験についてそう「おもった」からというだけではないでしょうか。そしてこの本はその彼女の個人的な思いを学者的言説に乗せて(小熊さんやら上野千鶴子さんやら大澤まさちさんやら)展開しただけのもので、決してなにかを学術的に論証するといった類のものではない。一応修士論文がもとになっているらしいけれども、要するに彼女が自身、一不登校当事者として感じた不登校の語られ方に対する違和感を解消すべく個人的な思いを述べ連ねたものでしかないと思いました。僕は彼女の本を読んでいて、「昔私の中にあった違和感が大学に行きいろんな言説を身に着けるようになって、どういうものだったのか自分の言葉で語ることができるようになってきた。大学の研究ってすごい!こういう言説を手に入れた私には当事者としての思いを語れずにいる人たちを代弁して当事者としての語りを言葉にしていく使命がある。不登校当事者の人たちが抱えている思いは元当事者の私にしか言語化できないはずだ。」というナイーブなヒロイズムと楽天的なナルシズムの混在を感じて仕方ありませんでした。
本書が当然に使用している「当事者」という言葉の規定があいまいでよくわかりませんでした。少なくとも一人の不登校当事者として僕は、ナルシスティックな彼女の言葉からは共感する部分は多少あるものの、「何か違うな、当事者という言葉を使うことの暴力性を自覚しているのかな」と腹が立つ部分が多かった気がします