そして、『少し思い切って勇気を出してダメもとで、一歩を踏み出してみよう!』という漠然とした、しかしどこか確かな『思い』を持っていた。
といっても特別何かを『する』ということではなかった。
それはむしろ一般的には静的と思われることで、例えば自分が今まで関心を持ちつつそのままにしていたような領域に今年は、失敗を恐れず思い切って踏み込んでみよう、というような意味合いのものであった。
当初は昨年から読み始めていたケン・ウィルバーを読み込んでみたい、そのために小さな読書会グループを作ろう、というようなことを考えていた。
しかし、こちらはそうそう一緒にのめりこんでくれる仲間が見つかるものでもなかったので、しばらく留保することにした。
そうこうしているうちにトランスパーソナル心理学・精神医学の分野で基礎的な研究会が都内で開かれていることをネットで知り、もぐりこませてもらえることになった。
参加者は10人ちょっとの集まりながら、大学の先生や院生、その道に造詣の深い人などが集まっており、トランスパーソナルのテキストを読みながら濃い内容の話が展開されていた。
スピリチュアリティをめぐって、医療や教育、宗教と幅広い分野にまたがりながら、毎回ちょっと他では聴けない最前線の刺激的かつ真面目な話をする仲間に加わることになった。
それともう一つ、こちらは以前より取り組んでいたシュタイナー思想の方向からの誘いであったが、これまた内輪の小さな研究会に参加できることになった。
現在私はほぼ月2回、シュタイナー思想の二つの読書会(講義形式の)に参加している。コンスタントに読み続けるにはとてもいい機会ではあるが、少し熱は鎮まり気味であった。
そこに以前から私が最も聴きたいと思っていた方が、テキストを翻訳しつつ、そのエッセンスを話してくれるという長い間切望していたような企画が、急に横浜で立ち上がることになり、そこの仲間に加われることになったのだ。
先日、その第一回目の集まりが市内の某所で、夕刻より始まった。
市内といえども高台にあるその場所は、森林公園の深い緑に包まれて、静かな夜空に虫の声だけが響き渡るようなちょっと得がたい空気の満ちているところであった。
昼間は人智学的な観点からの医療も試みられているクリニックの静かな一室で、その集まりは開かれた。
こちらもほんとに内容が濃くて、その場でのメモがとても追いつかないようなものであった。
不思議なのだが、参加したその夜は何かが刺激されてしまって、そのまま寝付くことができなかった。
笑われるかもしれないが、帰宅後ドラマのDVDを午前2時過ぎまで見て、集中しすぎた何かを少し散らさなければとても寝付かれないような、不思議な興奮に全身が包まれてしまっていたのだ。
その興奮は幾分鎮まったが、それでも話の断片が思い出そうとしなくてもしばしば蘇えってきて、沈むのにまだまだ時間がかかりそうなのだ。
『熱』の話、『私』の話、『霊』の話・・・、と言っても、その話を聞いていない、またそういうことに関心のない人には何のことやら、ということになるのだが・・・。
そしてこういう内容が、語り手の『私=霊』から、聞き手の『私=霊』に直に伝わってきてしまった、だからこんなに印象が強かった――そんな気がする、それは経験だったのだ。(よけいわからない!?)
この中でも『熱』の話は特に印象的であった。
それは『エネルギー』や『思い』の話に展開されていった。
言ってみれば『思い』は『熱』であり『エネルギー』であるということにもなると思うのだが、それはまさに『熱』のこもった話だったのである。(語り手の意図はもっと深いところにあったのかもしれません。とっても粗雑に理解しているような気がしますが。)
私にとって、今年このような機会が巡ってきたことは、まずは素直にとてもうれしくて仕方がない。
それぞれに、そこにはすでに驚くほど熱心にそれらのことに取り組んでいる人々がいるので、何とか足をひっぱらないように、私も今まで以上にしっかり読むものを読んで色々考えを深めていきたい、と思っている。
それと同時に今回のこのような展開の中で、ふと思うのは、図らずもこういった機会に繋がるようになった始まりには、年頭に抱いたあの『思い』が、深く関わっているような気がしてならない。
今回私が抱いた『思い』は、自分でも少しはっとするような『思い』であった。
それは心の最も深いところから湧いてきていた。
静かだけれどどこか力強さをたたえながら、ある種の予感を持って、それは私の意識に浮上してきていたような気がする。だから、自覚できたのだ。
そういう『思い』が、今回のような『機会』に自分を運んでいったのではないか、と思うのだ。
そして視点を変えれば、すでにそういう研究会を始めていた方々や、また呼びかけてくれた人の方にも、それぞれにそういうことを実現する方向に向かわせていた、深い強い『思い』があったにちがいない。
そういう『思い』が結集してそういう『形』になったにちがいない。
ということは、私の『思い』が、そういう人々の『思い』に繋がって、だからこそ私をそういう『場所』に運んでいったのだ、ということになる。
しかも結びついたその集まりで、『熱』についての、『思い』についての根源的な話を聴くことになったのだ。
何だかそのことも印象が深くて、私を眠れなくさせたのではないかという気がしてならない。
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以上のことを書きたいと2〜3日考えていたら、昨日、夕方友人と急に会えることになり、不登校やひきこもりについてじっくり話すことができた。
友人は、不登校とひきこもりの両方を経験してきた、鋭い感性と知性をあわせ持つ40代の女性なのだが、私達は出会うとほんとに尽きることなく、話をすることができ、昨夜は危うく最終電車に乗り遅れるほどだった。
ここしばらく、上記のテーマを巡ってずっと話し続けてきたのだが、その彼女との対話のおかげで、今までなかなかこんがらがって解らなかったことが、今回かなり整理して考えられるようになった。
こういう了解や納得が、また新たな『思い』や『意志』を生んでいくのだと思う。
こちらも何らかの動き(形)に繋がっていくかもしれない予感が湧いてきて、またまたうれしい意味で寝付けなかった。
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